幸せになる勇気(アドラーの教えII)

幸せになる勇気(岸見 一郎, 古賀 史健)

哲学者の岸見一郎さんと、フリーランスライターの古賀史健さんの共著です。哲人と青年の対話形式の物語になっています。欧米で絶大な支持を得ているアドラー心理学は、「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに、きわめてシンプルかつ具体的に答えています。本書は、アドラーの教え「嫌われる勇気」の続編です…

アドラーの教えII
自立とは「わたし」からの脱却である。
とは「技術」であり「決断である。
人生は「なんでもない日々」が試練となる。

3年ぶりに哲人を訪ねた青年が語る衝撃の告白…

それは
「アドラーを捨てるべきか否か」
という苦悩だった。

アドラー心理学は
机上の空論だとする彼に
「貴方はアドラーを誤解している」
と哲人は答える。

アドラーの言う、
誰もが幸せに生きるためにすべき
「人生最大の選択」とは何か?

貴方の人生を
一変させる哲学問答、再び…

幸福とは? 愛とは?

幸福になるためには、
対人関係のなかに踏み出さなければならない。

人間の悩みは
すべて対人関係の悩みである。

そして人間の幸福もまた、
すべて対人関係の幸福である。

人間にとって幸福とはなんなのか?

幸福とは貢献感である。

われわれはみな、
「わたしは誰かの役に立っている」
と思えたときにだけ
自らの価値を実感することができる。

「わたしは誰かの役に立っている」
という主観的な感覚があれば、
すなわち貢献感があれば、それでいい。

愛とは? 自立とは?

愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。

愛によってふたりは、
幸福なる生を成し遂げる。

愛は幸福につながるのか?

自立という言葉には、
どんな意味が込められているのか?

われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し
「世界の中心」であることをやめなければならない。

「わたし」から脱却しなければならない。

甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、
脱却しなければならない。

自己中心性から脱却できたとき、
ようやくわれわれは自立を果たす。

人間は、変わることができる。

ライフスタイルを、世界観や人生観を、
変えることができる。

そして愛は、「わたし」だった人生の主語を、
「わたしたち」に変える。

われわれは愛によって「わたし」から解放され、
自立を果たし、ほんとうの意味で世界を受け入れる。

愛を知り、人生の主語が「わたしたち」に変わること。

これは人生の、あらたなスタートである。

たったふたりからはじまった「わたしたち」は、
やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていく。

幸せになる勇気とは?

恋愛にしろ、人生全般にしろ、
アドラーは「運命の人」をいっさい認めない。

なぜ、多くの人は恋愛に
「運命の人」を求めるのか?

どうして結婚相手にロマンティックな幻想を抱くのか?

それは…
「すべての候補者を排除するため」である。

そのささやかな「出会い」を、
何かしらの「関係」に発展させるには、
一定の勇気が必要になる。

声をかけるとか、メールを送るとか…

そこで「関係」に踏み出す勇気をくじかれた人は、
どうするか?

「運命の人」という幻想にすがりつくのである。

目の前に愛すべき他者がいるのに、
あれこれ理由を並べて
「この人ではない」と退け、
「もっと理想的な、もっと完璧な、
もっと運命的な相手がいるはずだ」と目を伏せる。

それ以上の関係に踏み込もうとせず、
ありとあらゆる候補者を、
自らの手で排除する。

こうして過大な、
ありもしない理想を持ち出すことによって、
生きた人間と関わり合いになることを回避する。

それが「出会いがない」と嘆く人の正体である。

幸せは、向こうから訪れるものだと思っている。

「いまはまだ幸せが訪れていないが、
運命の人に出会いさえすれば、
すべてがうまくいくはずだ」と。

結婚とは、「対象」を選ぶことではない。

自らの生き方を選ぶことである。

誰かとの出会いに「運命」を感じ、
その直感に従って結婚を決意した、
という人は多い。

しかしそれは、あらかじめ定められた運命だったのではなく、
「運命だと信じること」を決意しただけである。

誰かを愛するということは
たんなる激しい感情ではない。

それは決意であり、決断であり、約束である。

出会いのかたちなど、どうでもいい。

もしもそこから本当の愛を築いていく決意を固め、
「ふたりで成し遂げる課題」に立ち向かうのであれば、
いかなる相手との愛もありうる。

われわれに「運命の人」などいないのだし、
その人が現れるのを待ってはいけない。

待っていたのでは、なにも変わらない。

運命とは、自らの手でつくる上げるものである。

われわれは運命の下僕になってはいけない。

運命の主人であらねばならない。

運命の人を求めるのではなく、
運命といえるだけの関係を築き上げる。

愛と結婚は、ふたりで踊るダンスである。

そばにいる人の手を取り、
いまの自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる。

運命は、そこからはじまる。

愛とは信念の行為であり、
わずかな信念しか持っていない人は、
わずかにしか愛することができない。

アドラー流にいえば、
あなたはわずかな勇気しか持っていなかったのだ。

だから、わずかにしか愛することができなかった。

愛する勇気を持てず、
子ども時代の、
愛されるライフスタイルにとどまろうとした。

愛する勇気とは…
幸せになる勇気である。

目次

第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし
第二部 なぜ「賞罰」を否定するのか
第三部 競争原理から協力原理へ
第四部 与えよ、さらば与えられん
第五部 愛する人生を選べ

Amazonに移動する…

book116

アドラー名言集

  • 哲学とは「愛知学」であり、哲学者とは「愛知者」である
  • わたしは「自分の知識が完全でないこと」を知っている。自分が無知であることを知っている。しかし、智者を自称する者たちは「すべて」をわかったつもりになっており、自らの無知についてなにも知らない。この一点、すなわち「自らの無知を知っている」という一点において、わたしは彼らよりも智者である
  • 人生のあらゆる物事について「これは誰の課題なのか?」という観点から、「自分の課題」と「他者の課題」を切り分けて考える
  • 「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない」。そして「他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない」
  • それが誰の課題であるか、見分ける方法は簡単である。「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか?」。これを考えればよい
  • 勉強は子どもの課題である。子どもの課題に大人が介入してはならない
  • 行動面の目標「自立すること」「社会と調和して暮らせること」
  • 心理面の目標「わたしには能力がある、という意識」「人々はわたしの仲間である、という意識」
  • まずは「あなた」が子どもたちに対して尊敬の念を持つ
  • 尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである
  • 尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである
  • 他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること
  • 「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生と持っていたら?」と考える
  • 共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度である
  • 人間は、過去の「原因」に突き動かされる存在ではなく、現在の「目的」に沿って生きている
  • われわれは過去の出来事によって決定されるのではなく、その出来事に対して「どのような意味を与えるか」によって、自らを決定している
  • 自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなたなのだ
  • 自分を変えるとは、「それまでの自分」に見切りをつけ、「それまでの自分」を否定し、「それまでの自分」が二度と顔を出さないよう、墓石の下に葬り去ることである
  • 人は過去に起こった膨大な出来事のなかから、いまの「目的」に合致する出来事だけを選択し、意味づけをほどこし、自らの記憶としている。いまの「目的」に反する出来事は消去する
  • 過去が「いま」を決めるのではない。あなたの「いま」が、過去を決めている

アドラー名言集(教育編)

  • 教育が目標とするところ、ひと言でいうとそれは「自立」である
  • 教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」である
  • カウンセラーは、相談者の「自立」に向けて援助する。そして自立のために必要な「人間知」を、共に考える
  • まずは「あなた」が子どもたちに対して尊敬の念を持つ
  • 学級という国家の主権者は教師ではなく、子どもたちである。そして学級のルールは、主権者たる子どもたちの合議に基いて制定されなければならない
  • 学級は、教師が統治する独裁国家ではない。子どもたちひとりひとりを主権者とする、民主主義国家である
  • 大人に必要なのは叱責ではなく、教えることである。感情的になるのではなく、大きな声を出すのでもなく、理性の言葉で
  • 子どもの問題行動について、その背後に働く心理を5つの段階に分けて考える
  • なぜ、子どもは問題行動に走るのか?アドラーが注目するのは、そこに隠された「目的」である
  • 問題行動の第一段階は、「賞賛の要求」である。親や教師に向けて、またその他の人々に向けて、「いい子」を演じる。子どもたちの目的は、あくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体のなかで特権的な地位を得ること」である
  • 問題行動の第二段階は、「注目喚起」である。せっかく「いいこと」をしたのに、ほめられない。そういうとき、子どもたちは、ほめられなくてもいいから、「とにかく目立ってやろう」と考える
  • 問題行動の第三段階は、「権力争い」である。誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することによって、自らの「力」を誇示しようとする
  • 問題行動の第四段階は、「復讐」である。権力争いを挑んだのに、歯がたたない。勝利を収めることができず、特権的地位を得ることもできない。そうして戦いに敗れた子どもたちは、いったん引き下がった後に「復讐」を画策する
  • 問題行動の第五段階は、「無能の証明」である。わたしに期待しないでくれ、わたしは無能なのだからと思うようになる。人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにも解決できないと信じ込むようになる。そして自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手を使って「証明」しようとする
  • 教師のやるべきことは、子どもらの「目的」に注目し、彼らと共に「これからどうするか」を考えることである
  • 子どもたちが最後に選択するコミニケーション手段、それが暴力である。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミニケーション手段である
  • 教師は、子どもたちと言葉でコミニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている
  • 子どもたちの問題行動を前にしたとき、親や教育者はなにをすべきか? アドラーは「裁判官の立場を放棄せよ」と語っている。あなたは裁きを下す特権など与えられていない
  • 教育者とはカウンセラーであり、カウンセリングとは「再教育」である
  • 怒りや暴力を伴うコミニケーションには、尊敬が存在しない。怒りとは、人と人を引き離す感情である
  • われわれは能力が足りないのではなく、能力を使う勇気が足りていない
  • なぜ人は自立を拒絶するのか? それは「他者の指示」を仰いで生きていたほうが、ラクだからである
  • もし子どもたちが自立してしまったら、教師と対等な立場にたってしまったら、教師の権威は崩れさってしまう
  • 教育をする立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げておかなければならない
  • 子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助する。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近づきすぎない、援助できる距離で、見守る
  • 教育者は裁判官ではなく、子どもに寄り添うカウンセラーであらねばならない。そして叱ることは、自身の未熟さを露呈し、軽蔑を生むだけの行為である。教育の最終目標は「自立」である
  • ほめることは、「能力のある人が、能力のない人に下す評価」であり、その目的は「操作」である
  • 人々は、リーダーの人格や思想信条を支持しているのではなく、ただ「ほめられること」や「叱られないこと」を目的として、従っているのである
  • 子どもたちを競争原理のなかに置き、他者と競うことに駆り立てたとき、何が起きるか? 競争相手とは、すなわち「敵」である。ほどなく子どもたちは、「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会をうかがう、油断ならない存在だ」というライフスタイルを身につけていく
  • 他者と競争するのではなく、他者と協力を第一に考える。学級が協力原理によって運営されるようになったら、子どもたちは「人々はわたしの仲間である」というライフスタイルを身につけてくれる
  • 賞罰をやめ、競争の芽をひとつずつ摘んでいくこと。学級から競争原理をなくしていくこと
  • アドラー心理学は、横の関係に基づく「民主主義の心理学」である
  • アドラー心理学では、承認欲求を否定する。なぜか? 承認欲求にとらわれた人間は、他者から認めてもらうことを願うあまり、いつの間にか他者の要望に沿った人生を生きることになる。つまり、他者の人生を生きることになる
  • ほかの誰かである、「あの人」の期待を満たす生き方を選んではならない
  • アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考える。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい
  • 「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存である。一方、「わたし」の価値を、自ら決定すること。これを「自立」と呼ぶ
  • 「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置く。それが本当の個性である
  • 叱ることやほめること、すなわち賞罰は子どもの「自立」を妨げる。なぜなら賞罰とは、子どもを自分の支配下にお置こうとする行為であり、それに頼る大人たちは、心のどこかで子どもたちの「自立」を恐れている
  • たとえ10歳の子どもであっても、自立することはできる。50歳や60歳であっても、自立できていない人もいる
  • 教師は、子どもたちと「ひとりの友人」として、向き合うべきである

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする