どうせ死ぬのになぜ生きるのか

どうせ死ぬのになぜ生きるのか by 名越 康文

名越 康文

1960年、奈良県生まれ。
精神科医。
相愛大学、高野山大学客員教授。

専門は思春期精神医学、精神療法。
近畿大学医学部卒業後、大阪府立中宮病院(現:大阪府立精神医療センター)にて、精神科救急病棟の設立、責任者を経て、1999年に同病院を退職。
引き続き臨床に携わる一方で、テレビ・ラジオでコメンテーター、映画評論、漫画分析など様々な分野で活躍中…

なぜ私たちは悩みや不安から
いつまでたっても解放されないのか。

それは、
「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに
答えられないために、
一つひとつの悩みの根底にある
「漠然とした不安」が解消されないからではないか…

目次

・仏教は「こうすればいいよ」という実際の指針を持っている
・心を落ち着かせなければ真実を見ることはできない
・「心は自分ではない」
・問題は「怒りそのもの」がもたらす害
・自意識を小さくする行の力
・現象学と仏教
・ご本尊と呼吸を合わせる
・真言を唱える

どうせ死ぬのになぜ生きるのか

どうせ死ぬのになぜ生きるのか

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MEMO

どうせ死ぬのになぜ生きるのか

◆「欲から自由になる」ということは「欲を持たない」ということではない…

欲から自由になるということは、
「モノやお金を持たない」ことではなく、
「どれだけモノやお金を持っていても、それに縛られない」ことである。

問題はどれだけ執着を捨てられるかということであって、
執着のもととなるモノやお金を捨てることには意味がない。

「お金に囚われない」ということは「お金を持たない」こととは何の関係もない。

◆「無常」とは何か?

世の中の物事はすべて一時も留まることなく
変わり続けている。

別の言い方をすれば、
この世界に起きることはすべて「新しいこと」であり、
「同じこと」が繰り返されることはない。

どんな感情も、どんな人間関係も
「変わり続ける流れの中の一曲面」に過ぎないし、
だから「今」がどれだけ不幸であっても
絶望する必要もない。

この「無常」をどれくらい深く理解しているかで、
怒りが持続するかどうかは大きく左右される。

たとえば、誰かと仲違いしたときも、
「今、ここ」の怒りだけで済めばたいしたことはないのに、
私たちはついつい「こいつは昔から嫌な奴だった」と
過去の出来事と結びつけ、
「この次も、また同じようなことをするに違いない」
と悲観的な未来を予測することで
怒りを継続させてしまう。

無常を知る人は、
どれだけ周囲の人が自分よりも愚かに見えたとしても、
決して相手を見下すことはないし、
むやみに自己卑下することもない。

なぜなら、いま愚かな言動をしている相手や自分自身が、
明日になれば大きく変化し、成長しているかもしれないから。

◆「あなたの心」は「あなた」ではない…
心は自分自身ではなく、
隣人のような存在であり、
自由自在である。

◆物事の真実を見るには?

私たちはどうして、
現実を「ありのまま」に捉え、
生きることができないのか?

それは、
私たちの心が絶え間なく乱れ続けているからである。

大きな桶に水を張り、
その水面に真ん丸のお月さまを映したと想像してみる。

もしその水面にさざ波ひとつ立っていなければ、
空に浮かぶ真ん丸なお月さまそのままの姿を、
桶の水に見つけることができる。

しかし、桶に入った水は、
ほんのちょっとのことでさざ波が立ってしまう。

その結果、水面に映るのは「波打ったお月さま」
の姿になってしまう。

この「桶に張った水」は「心」の喩え。

水面はずっと波立ち続けているので、
私たちはほとんどの場合
「現実をありのままに見る」
ということができない。

私たちは終始波打ち続けている水面のような
「心」に映すことによってしか、
現実に触れることができていない。

現実を「ありのまま」に捉えるためには、
その波だった水面である心を「スッ」と
静かに落ち着かせる必要がある。

◆言葉で説明できる限界!

「わからないままただやる」ことによって初めて、
私たちは「言葉で説明できる限界」を超えることができる。

私たちの成長にブレーキをかけている原因の多くは、
実は「言葉」に囚われることによってもたらされている。

たとえば、スケートを習うとき、
「教則本を読んでからリンクに立つ」
という順序で教わることはまずない。

なぜか?

「転ばずに氷の上を滑るという身体感覚を身につける」ということは、
「言葉で説明できる限界」を越えているからである。

「言葉で説明できる限界」を越えていく方法というのは、
実はスポーツや武道、あるいは楽器演奏、舞踏といった技芸の
世界においては、あるレベルのカベを超える上で欠かせないものである。

少なくとも、それぞれの領域で頭ひとつ飛び出す人は、
「言葉で説明できる限界」を超える方法論を自分なりに
開拓しているものである。

これは株式、FX、仮想通貨などの投資にも言えることである。

◆成功本を読んでも、ネット塾に入っても成功しないのはなぜか?

「ハウツー」というのは
「これをやればこれだけのいいこと(利益)があるよ」
という「プラスアルファの実利」に動機づけられた方法論である。

それに取り込むことによって人生が変わる、
悩みが解消される、お金儲けができる…

私たちはそういう「実利」に動機づけられてはじめて
「やってみようかな」と考える。

本屋に行くと…

▶こうすれば儲けられます
▶こうすれば痩せられます

といったキャッチコピーが書かれた
成功本・自己啓発本が平積みされている。

こうした本が売れるのは、
みんながそれをやることで何らかの「実利」が
得られることを期待しているからである。

だが成功本を買ったくらいで
人生を変えることはできない。

それは成功本に書かれた方法が間違っているからではない。

もちろん、いい加減な本も中にあるが、
たいていの本は、明確で効果的な方法論を書いている。

そこに書かれていることを、
きちんと真面目に取り組みさえすれば、
きっとその人は人生を変えることができるはず。

しかし、現実にはそれを読んだ人の多くは
成果を上げることができない。

なぜか?

それは…

成功本を読んでも、
絶対にその通りには行動しないからである。

徹底的に、やらない!

やっても数日、長く保つ人で1ヶ月。

1年、2年と続けられる人は本当に稀である。

では、なぜやらないのか?

なぜ続かないのか?

その理由は「成功本」を買うときの動機、
つまり「プラスアルファの実利」にある。

私たちは「プラスアルファの実利」だけを動機にしていると、
自分の行動を変えることができない。

人間というのは欲、すなわち「実利」に動機づけられて物事に取り組む。

しかし、「実利」だけでは人は行動を変えない。

たとえば、生活習慣病になった人は
「食事を制限し、運動したほうが長生きできますよ」
といくら実利を医者から説き伏せられたとしても、
なかなか長年の生活習慣を変えようとはしない。

もちろん短期的、一時的には行動しようとするが、
そういう動機づけには継続性がない。

一方で、人生のどこかで「ガラッ」とそれまでの行動を変え、
人生の方向性を転換する人も少数ながらいる。

では、そういう「継続的なやる気」というのは、
どのようにしたら起きるのか?

それは「本能レベルでの自発性」が刺激されたとき。

「自発性」というのは、言葉の上で「やるぞ!」とか
「やらなきゃ!」と表現されるような気持ちではなく、
もっと本能的と言ってもいいぐらい強い「衝動」。

そしてこの衝動は、
実は現代を生きる人間にも色濃く残っている。

私たちはどれほど魅力的に思えるものであっても、
「他人から押しつけられた」というだけで
それを拒否することがある。

「他人に言われたとおり」にだけは
行動しようとはしない。

「実利」に基づいた動機づけの問題はここにある。

つまり、「実利」を他人や、あるいは本から押し付けられた瞬間、
無意識のうちにそれを拒絶している。

少なくとも私たちの奥底にある「自発性」は、
そのハウツーを拒否している。

人は自発性を動機にしないと本気にはならない。

では、どうしたら人の自発性は刺激されるのか。

人の自発性を根底のところで刺激するのは
「マイナスを埋めたい」という願い。

「劣等感や挫折感をなんとか解消したい」
ということを願ったとき、
私たちの自発性に火がつく。

そうやって生じた「やる気」には、
プラスアルファの実利を得ようとしているときとは
まったく質の違う継続性が伴う。

本気で悩み、本気で苦しんだ人だけが、
「本気」で取り組み、自らが変化していくことができる。

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