17歳のための世界と日本の見方

17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義 by 松岡 正剛

松岡 正剛

1944年、京都生まれ。
早稲田大学出身。
東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授をへて、編集工学研究所所長、ISIS編集学校校長。
情報文化と情報技術をつなぐ研究開発に多数携わる。
日本文化研究の第一人者でもある…

流れるようにドンドン読める人間と文化の教科書!

世界の文化・宗教・思想をクロニクルにまとめ、
日本とのつながりを明らかにする…

目次

第1講 人間と文化の大事な関係
(「関係」は変化しやすい/「編集」とは何か ほか)

第2講 物語のしくみ・宗教のしくみ
(物語と言語/語り部の記憶 ほか)

第3講 キリスト教の神の謎
(生と死の問題/イエス・キリストとは何か…謎・その1 ほか)

第4講 日本について考えてみよう
(日本らしさとは何か―「コード」と「モード」/日本の神話に戻ってみる ほか)

第5講 ヨーロッパと日本をつなげる
(「異教の知」―ルネサンスの幕開け/神秘のヘルメス思想 ほか)

17歳のための世界と日本の見方

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MEMO

17歳のための世界と日本の見方

◆パスカルは、
事の大小とか強弱に対する人間の意識は入れ替わるのだと言っている。

弱いものや小さいものが、
人間の意識のなかでは大きな自然や巨大な宇宙にしてきするといったことがおこる。

そこを考えることこそ「考える葦」としての人間のありかたであって、
だからこそマクロな宇宙とミクロな世界は、
どこかでつながることができるのだ、
と考えていた。

◆音読 VS 黙読

人間の歴史は古代このかた長いあいだ、
本を読むときには声を出していた。

つまり本は音読しかできなかった。

それが活版印刷以降、だんだん黙って本を読むようになった。

つまり黙読が始まった。

それによって、読書のスピードが格段に上がった。

しかし他方、古代以来の「声の文化」がしだいに薄れ、
かつての語り部のアタマの中にあった劇的なものはちがった読み方の社会が生まれた。

だから、1ヶ月か3ヶ月に1度くらいは音読して本を読むことを勧める。

◆枯山水

枯山水は水を感じたいがゆえに、
あえて水をなくしてしまっている。

つまりそこには「引き算」という方法が生きている。

それが新しい美を生んだ。

私たちは極端な消費生活をしていて、
何でもポンポン買っているが、
これは「足し算」の社会である。

しかし、ときには「引き算」のほうがずっといいときもある。

ずっと美しいときもある。

◆受苦(パッシブ)

これはキリスト教圏の人々にとって、
きわめて重要な信仰の支えになる。

つまり、自分が苦しい思いをしたり困難に出会ったときに、
自分が不運であるとか損をしたと考えるのではなく、
その苦難によって何か聖なるものを受け継いでいるのかもしれないと考えること。

◆キリスト教は、
ユダヤ教のエッセネ派やまたそのなかの小集団だったと考えられるクムラン宗団が
編集しつつあった信仰を再編集し、ユダヤ教よりも先に救世主(メシア)というわかりやすい
ヒーローを強調することで、一気に成立していった宗教である。

◆無知の知

老子や莊子たちも、
人間の生死は無明(むみょう)である、
ということを言っている。

無明というのは、わからないことがあるということ。

そのように無明であるということを積極的に捉えて、
そのような「わからなさ」というものを知ろうとしていくのが、
東洋の哲学や宗教の考えかたであった。

「無知の知」という言い方もした。

◆死が他人事じゃないからこそ、
「生」も他人事じゃない。

ここが重要なところである。

生も他人事ではないとしたら、
いま何をすべきかということも、
1年に1度くらいは深く見つめてみるといい。

———————————————–
◆一神教 VS 多神教

西に生まれた宗教と東に生まれた宗教とは、
かなり考えかたや成立の拠点が違う。

これは「砂漠の思想」と「森林の思想」との違い、
という説明ができる。

ユダヤ教、イスラム教も絶対的に唯一の神を信仰する。

これを一神教という。

これら一神教が生まれたのは、いずれも砂漠の風土であった。

砂漠のような厳しい自然条件のなかでは、
いろいろと判断を迷わせるようなたくさんの神々がいては困る。

神やリーダーはたった一人でいいし、
その神やリーダーが、
いつも東は西か、攻めるべきか引きべきかを示してくれないとやっていけない。

あとはすべて「神の思し召し」に従うだけ。

こうして、「砂漠の宗教」には唯一絶対的な一神教が確立し、
2分法的な宗教文化や社会文化が広まった。

一方、インドや中国や日本といった東洋の国々は非常に湿潤で、森林が多い。

もちろん森林といえども生きていくことは決して容易なことではない。

けれども、砂漠のような光と闇や、生と死に迫られるといった二者択一的な状況ではなかった。

こうして「森林の宗教」の東洋では、さまざまな選択肢ごとにそれを司るたくさんの神々や仏たちを考え出したり、
またそれらの神仏と調和しながら、人間の生き方や生きる技術を高めていこうといった思想が発達した。

すなわち「多宗教」や「多神多仏」の国々になった。

◆中国は、儒教と道教という2つの思想や宗教をもちながら
さらにそこにブッダの教えてある「仏教」というものをとりいれていった。

そして仏教は中国において独自の発展をしていく。

◆老荘思想(タオイズム)

「空」が「苦しみからの解放」を重視しているのに対して、
老荘思想の「無」は「ちがいからの解放」を意図している。

「無」になりなさいということを、
「無為自然」ともいう。

「あるがままに」ということ。

そうすることによって、
さまざまな差異(ちがい)を超えて本当の心の遊びというものと交じりあって、
楽しめるということ。

これが老荘思想とかタオイズムという。

◆「無」というものを重視する見方

「自分」というものを偉く見せたいとかカッコよくしたいといった考えを捨てて、
おのれをちょっと虚しくすることによって楽になりなさいというすすめ。

◆道(タオ)

老荘思想の「道」は、宇宙にある普遍的な道、
すなわち「タオ」のことをさす。

宇宙には何か大きなるものが偏在していて、
個々の人間はそのような大いなるものに自分を合わせるだけでいいのだという思想。

人間社会の上下関係や経験知のちょっとした違いなんかは、
そのような宇宙の摂理にくらべればたしたものではない。

宇宙の根本原理である「道(タオ)」とともにあるということこそが大事なのだ、という考え。

◆儒教(性悪説 VS 性善説)

儒教というのは、
もともとリーダーシップの人間文化論だった。

君主やキングがどのような人間観をもつべきかということを考え、
それには「仁」をもつことだと説いた。

この孔子の考えてを受けて次に孟子が出て、さらに筍子が出てくる。

孟子は、孔子の説く「仁」や「礼」を重んじ、さらにそこに「天命」というものを加える。

つまり、孟子は「性善説」というものを唱えた。

人間の本来の性質は「善」である。

だからそこに天命、すなわち天から授かる運気を受けて、
リーダーシップをつかみなさいというわけ。

一方、筍子は孟子とは逆で、人間の性分は意地悪でいじましくて、
妬み深くて残酷なのだという説、「性悪説」を唱えた。

筍子は性悪説を取ることによって、
だからこそ人間は教えを受けるということが必要なのだ、
ということを説いた。

◆大乗仏教と小乗仏教

▶大乗仏教
他人を救うための仏教

▶小乗仏教
自分を知るための仏教

◆四諦

ブッダは、人間が知るべき真理として、
4つのことをあげる。

これを四諦(したい)という。

1)一切皆苦(いっさいかいく)
この世の中はすべて苦しみなのだ、人間がこの世に生まれたことがそもそも苦しみなのだ、ということを知りなさい、ということ。

2)諸行無常(しょぎょうむじょう)
すべてのことは一時(いっとき)として同じことがない、物事は常に次々に変化していく。
世の中は無常である。
だから、人間は変わっていっていい、変化したっていい。

3)諸法無我(しょほうむが)
変化し続けるこの世の中のことは、すべてが人間の自由になるとは限らない。
人間の自我でさえ、自分ではどうすることもできない。家族も自由にならない。
しかし、人間の苦しみというものは、この「自由にならないもの」「無常なもの」に対して、
欲望をもったり執着したりするからおこるのだら、そのような執着を捨てなさい、という教え。

4)涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
静かで、いろいろなことに迷わない、澄んだ境地にいたることができるというもの…

◆ブッダが何を悟ったのか?

意外なことに、
人間の苦しみを空じるということに気がついた。

「苦」というものを捨てるのではない。

「苦」を受け入れて、
しかもそれを「空」というものにしてしまう。

「ある」ということと「ない」ということを両方いっしょに受け入れてしまう、
そのような方法を悟った。

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