大愚のすすめ―生きる心得・十一説法

大愚のすすめ―生きる心得・十一説法 by 山田 恵諦

山田 恵諦 (やまだえたい)

第253世天台座主。
明治28年兵庫県生まれ。
5、6歳の時に母に連れられて聖徳太子の寺に詣で、修行者の姿に心を引かれ、仏教に憧れた、という。

10歳で得度、16歳の時に比叡山に登る。
天台宗西部大学卒業。

昭和49年(78歳)、第253世座主に就任。

昭和59年(88歳)、中国五台山を巡礼。日本の全宗教が集う日本宗教代表者名誉議長を務め、昭和62年8月の比叡山宗教サミットは同会議が主催。
平成6年98歳でご逝去。

お利口さんになろうとあくせくするな!

自分を最低の位置において世界を眺めると、
山川草木のすべてのものが先生になり、
真実というものを教えてくれる…

比叡山天台座主が説く、生きる心得、11説法…

目次

第1章 大いに嘘はつくがよい―“方便”の使いみち
第2章 人はなぜ生きるのか
第3章 徳を積む・よい縁をつかむ
第4章 助け合う心・分け合う性格をつくる―これからの日本の役割
第5章 真実を正しく見る眼―比叡山の歌
第6章 急がず、ゆっくり生きなさい
第7章 明るく、楽しく、たくましく―日常生活の心得
第8章 “奥ゆかしさ”を知ることの大切さ―東洋と西洋の発想の違い
第9章 家庭は“心を伝え、育てる”道場
第10章 楽しく生きるのが宗教のこころ
終章 人を生かす、自分を生きる―大愚のすすめ

大愚のすすめ―生きる心得・十一説法

大愚のすすめ―生きる心得・十一説法

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MEMO

大愚のすすめ

◆自分が愚の中の極愚であると本当に気づき、
またそこまで自分が落ちてみるということは
なかなかできることではない。

しかしその気持になった時、
目の前が開け、
ものごとがよく見えてくる。

自分をまず最低の位置に置いて、
そこから眺める世界というものは、
上から見るのとはえらい違いがある。

山川草木のすべてが先生になり、
真実というものを教えてくれる

◆経験というものは、
ひとつ積んだらそれを実行してみる。

2つ積んだらそれを実行してみる。

3つ積んだらそれを実行してみるという具合に、
習熟度を高めながら積み重ねていくしかない。

それによって、
人間の「徳」が段々と深まっていく。

◆教育というのは知識ではない。

考え方や思想ではない。

「性格づくり」である。

◆よく「意見聞くときゃ頭を下げよ。
さげりゃ意見が頭を越す」と言われる。

まさにその通りで、
意見されて恐縮して頭を下げて聞いているように見えて、
実はその意見は頭の上を通り越している。

ちっとも胸の内へは入らない。

だから、直接的に意見をしても、
あまり効果がない。

ほとんど意味がない。

ところが間接的な教えというものは、
結局のところ教えて貰うのではなくて、
自己で知るということ。

自分が考えないといけない。

ヒントを与えられて自分で結果をとる。

頭ごなしにこうしろと言ってしまえば簡単。

簡単だから効き目がない。

自分で発明し、発見するように仕向ける。

◆真理とは何かと考える時、
一番わかりやすい答えは、
自然の道理にかなっているということ

つまり、自然の道理というものには
決して無理がない。

そして無理がないということは、
すなわち理にかなっているから
無理がないということになってくる。

◆「いただきます」と言う相手は、
食べるものを稼いできたお父さんにではなく、
食事の用意をしてくれたお母さんにはなく、
天地自然に対して言う。

◆理想を求めて、
天命として与えられた仕事を成し遂げるという気持ちであれば、
必ず衣食はついてくる。

生活にはそれほど困ることはない。

ところが、
生活のことだけを考えていたのでは目標がないから、
結局のところ仕事が身に入らなくて、
仕事もうまくいかないし
生活にも困るようになる。

よく「生活のために理想を捨てる」なんてことを言う人がいるが、
そんなことはない。

それはどこか考え方が間違っている結果である。

◆一笑一少、一怒一老

ひとつ笑えばひとつ若返る、
ひとつ怒ればひとつ年をとるという意味。

長生きしたい、
気分よく幸せに暮らしたいと思ったら、
何も難しいことはない。

腹を立てず、
毎日ニコニコ笑いをもって生活する

◆心臓の寿命は110年

人間の心臓は110歳まで生きられるように
丈夫にできている。

ただし、心臓を大切に、
扱い方を上手にすればの話し。

では、どういう扱い方が下手なのか?

心臓を痛めるのか?

一番悪いのは、
怒ること、腹を立てること。

その次に悪いのは、
心配ごとなどがあって悲しむこと。

そして急ぐこと。

腹を立てず、
悲しみごとがなく、
のんびりと生きていれば、
必要以上に心臓の鼓動を速めない。

負担がかからない。

◆徳というのは、
善行、正義を体得した人の立派な行いを総称しているが、
要するに「真っすぐな心で行う」ということ。

つまり、真心をもった行いを重ねることによって徳がついていく。

◆成功に導く3つの力

  1. 自己の最大の努力
  2. 周囲の援助
  3. 神仏の加護

この3つの力が揃わないと、
ものごとはうまく進まない。

この3つの揃わなければ、
大小いかなるものごとでも、
よい結果は得られないのが
自然の道理である。

◆一番望ましいのは何かといえば、
善因にしろ悪因にしろ、
たどり着くところが善果であること。

そこに到るまでの縁というものを、
何とかしてそのようにしたい。

じゃ、どうすればよいかというと
「方便を開く」こと。

真実に到達するためにその場に
最も適切な考え方と行動をとる。

◆知識とは経験なり

知識というものは、
実行を伴わなければ死んでしまう。

ただ知っているというだけでは
何の役にも立たない。

実行の移す、
生かして使うところに真実がある。

頭脳が発達し考えることが多くなってくると、
実行が伴わなくなってくる。

実行しなくても、
わかったつもりになる。

ここに落とし穴がある。

◆自我 ▶ 無我

真実の姿を見るためには
大愚でなければならない。

無我でなくてはならない。

しかし、無我というのは、
まったく我をなくすことではない

この一見矛盾した問題を解くカギは、
自我の置き方、
自我の在り方にある。

自我の「在り方」を、
個人に置くか、家庭に置くか、社会に置くか…
そのことによって広さ、
深さが違ってくる。

自分に置いたのでは、
エゴイズムだと言われて嫌われる。

正しさの基準が自分にしかないから、
たとえば正しい行いをしたつもりでいても、
それが本当に正しいのかどうか、
かなり怪しいことになる。

では、その「在り方」を相手に置いたらどうか。

すると自分の自我はなくなるけれど、
今度は相手の自我が強くなるから、
立場を代えただけで同じことになる。

家庭に置いたらどうか。

家庭は喜ぶかもしれないが、
社会的にみて差しつかえが生じるかもしれない。

社会に置いたらどうか。

その社会は喜ぶかもしれないが、
他の社会、他の国々にとっては都合が悪いかもしれない。

人間に置いたらどうか。

人間にとっては都合のよいことでも、
この地球上に生命を与えられている他の動植物、
あるいは地球そのものにとって迷惑が生じるかもしれない。

こうして最後に、
森羅万象、宇宙に依存する数限りない一切のものの上に
自我を置くとよいことになる

自我がこのような広がりを持った時、
それが「無我」に通じることになる。

つまり、自我というものは特定の場所にあるのではない。

どこにでもある。

自我をまったくなくするのではなく、
しかも無我になるということはそういうことである。

同時にそれは、
自分で生きるというより、
生かされて生きているという
認識になってくる。

————————————————-
◆巷には、
こうすればお金が儲かるとか、
こうすれば何々に成功するといった本が溢れている。

ではなぜお金持ちになった方がよいか、
なぜ成功した方がよいかといったら、
それは自分が楽しく生活できるためだということになる。

ということは、
裏返してみると、
お金持ちになれなかったり
何かの目的に成功しなかったりしたら
楽しくなれないということになる。

しかし、
もっと大きな、
ゆるぎない人間の幸せを求めてほしい。

お金があるとかないとか、
社会的地位があるとかないとか、
こうすればある物ごとがうまくいくとかいかぬとか
いったことではなく。

それらよりずっと高いところ、
奥深いところに喜びの源があることに気づいてほしい。

人々が喜んでくれたり、
幸せに暮らしてくれたら、
自分も嬉しくなってくる。

これが本当の楽しみというもので、
これ以上のものはない。

◆すべてにおいて
「自分は生かされている」
そう考えられるようになった時、
それが大愚であり、無我である

自ずと感謝の念が広がり、
あくまもでも素直で穏やかな自分になれる。

その曇のない心が、
真実を見る。

◆道理のかなう方へもっていくには?

この世の中、
道理にかなうことばかりではない。

道理にかなわないことが色々ある。

それをどうにか良い方へ、
道理のかなう方へもっていくには
4つの方法がある。

  1. 自分を中心に置く考え方
  2. 特定の相手を中心に置く考え方
  3. そのもの自体の在り方を中心に置くという考え方
  4. 皆の幸せ、できるだけ多くの人が一番幸せになれる方法を考え、そのように行動する

その場に最も適した考え方、
行いをするということは、
より多くの人々の幸せのためになる
ということである。

◆修行とは?

同じことを積み重ねていくこと。

色々と変わったことをするのが
修行ではない。

ひとつの道をずっと突き進み、
経験を積み重ねていく。

そして、知らず知らずのうちに
「そのまま」が行われているところまで至った時が、
卒業ということになる。

◆方便の門を開く

その場に最も適した考え方、
行いをする。

そのためには
真実が見えてなくてはならない。

ではどうやったら真実が見えるのか?

大愚でなければならない、
無我でなくてはならない。

◆ありがとうございます会社(愚を大愚にした実話)

ある母子家庭に、
いわば「アホ」の子がいた。

義務教育だから中学は卒業したものの、
社会に出てもほとんど何の役にも立ちそうにない。

可哀そうと思って色々な人が世話をして
働き口を捜してあげるけれど、
役に立たないのですぐ断られてしまう。

家に帰ると母親に叱られるものだから、
あっちで遊び、
こっちで遊んでいる。

そんな子を見かけていたある寺の坊さんが、

「なあお前、
何の役にも立たんでもいいから、
仕事場に戻って、
ありがとうと言うでみい。
ありがとうと言うて頭を下げれば、
皆が喜んでくださる。
さすれば、
必ず自分も光るようになる」

と説教した。

「ただ、ありがとうと言えばいいんか?」

「そや、とにかく戻って、
ありがとうと言うてみい。
何回か言ううちに、
まわりが変わってくる」

その子にも、
やはり見どころがあったのか、
言われた通り仕事場に戻ると、
いきなり大きな声で
「ありがとうございます」
と言った。

退屈だったので、
とにかく仕事場に戻ってそう言った。

もちろん、
周りの人たちにそう簡単に通じるはずもなくて
「何を突然言い出すんや、このアホウ」といった状態だった。

しかし、アホの一徹というか、
周囲のそんな反応も気にかけず、
退社時間になると出口のところに立って
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
と、その子は皆を送り出した。

その子にとっては
きっと楽しいことだったのかもしれない。

翌朝も人より先に来て、
門口に立ち、
お早うとは言わずに
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
と皆を迎え始めた。

皆は多分あきれていたと思う。

しかし、
やはり心に変化が起きないわけにはいかなかった。

その子に対する見方が変わってきた。

アホだのドン臭いのと叱られなくなった。

その子に対する見方が変わってきた。

あまり逆らわずに、
その子の自由にさせようというような雰囲気が
自然に広がっていく。

そうすると、
その子も安心して振る舞えるようになる。

その辺を掃除してみたり、
お茶を入れ出してみたり…。

小さな会社だから、
社長もそうした有様を見聞きしていた。

何日かして「これは面白いぞ」と思うようになり、
社長も一緒になって
「ありがとうございました」
とやり始めた。

社員はびっくりしたが、
やがて一人二人と
「ありがとうございます」族が増えていく。

それにつれて、
社内が明るく、
楽しく、たくましくなってきた。

結局は、
「ありがとうございます会社」になってしまった。

社長はとてもよろこんだ。

その子に
「お前は社の宝だから、
これまで通り、
そのありがとうだけでいいから心配せずに働けよ。
一生食べさせてやるさかいに」
と言った。

「ありがとうございます」とその子は答える。

それ以後すっかりその子は
落ち着いて働くようになり、
ちゃんと給料も家へ持って帰り、
お母さんにも
「ありがとうございました」
と声をかえるようになった。

アホとか賢いとかでなしに、
「ありがとう」という言葉を覚えて、
言いさえすれば暮らせる。

周囲の人たちの心に何かを与え、
また自分自身にも何かが戻ってくる。

この子は「愚」を「大愚」にしたのである。

◆「方便」というものは、
どうして見出すのか?

どのようにして身につけるのか?

それは…

「大愚」であればよい。

大愚とは、自分を無にすること。

大愚とは、
相手を第一に考え、
自己を第二に置くということ。

まず相手の言うことを聞き、
相手の立場を考えて、
それにどう調和し得るかを探し求める。

そこに初めて思案というものが生まれる。

大愚の「大」というのは、
意識的にそうせよということではなく、
「自然に元へ戻す」という意味。

ただの愚というのは、
ほんとうのアホであって、
これに「大」がつかないといけない。

つまり、大愚とは「無我」に近いもの、
等しいとも言える

自己というものを自然に元へ戻し、
我をなくせと言っても、
何もしないでそのままでいいということにはならない。

ここで「方便の門を開く」
ということが重要になってくる。

◆何事も、
結果を得ることだけを考えていてのでは、
かえって結果が得られなくなる。

ここで「方便の門を開く」という言葉の
重みがよくわかるはず。

◆「方便の門を開く」とは?

その場に最も適した考え方、
行動をする

そのためには
真実が見えないといけない。

方便の「方」はその場に最も適した考え方、
「便」はそれを用いて事を処理することである。

なので、すべてが満足する結果になるように運べ、
ということになる。

実は、
門を開く」ということがさらに重要で、
中心はここにある。

頭で考えただけでは不足で、
門を開いて自分がそこから出て行けと教えている。

つまり、「行動」を起こすということが重要である。

いくら理想的なことを考えても、
考えるだけでは結果は得られない。

考えたことをうまく実行しないといけない。

「上手だが行うことができない」
というより
「下手でも行う方が上手」ということ。

◆「お利口さん」になろうと、
あくせくするな!

自分を最低の位置において、
世界を眺めると、
山川草木のすべてのものが先生になり、
真実というものを教えてくれる。

人生は力まず
「大バカ」でいこうではないか?

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