自分の中に孤独を抱け

自分の中に孤独を抱け by 岡本 太郎

岡本 太郎

芸術家。
1911年生まれ。
29年に渡仏し、30年代のパリで抽象芸術やシュルレアリスム運動に参画。
パリ大学でマルセル・モースに民族学を学び、ジョルジュ・バタイユらと活動をともにした。
40年帰国。
戦後日本で前衛芸術運動を展開し、問題作を次々と社会に送り出す。
70年大阪万博で太陽の塔を制作し、国民的存在になる。96年没…

人間がいちばん人間的なのは、
孤独であるときなんだ。

だからぼくは言いたい。

孤独を悲壮感でとらえるな。

孤独こそ人間の現実的なあり方であって、狭い、特殊な状況じゃない。

人間全体、
みんなの運命をとことんまで考えたら、
ひとは必然的に孤独になる。

孤独であるからこそ、無限の視野がひらける…

目次

第1章 人生のドラマは、いつだって自分が中心だ
第2章 「挑み」をやめた瞬間から老人になる
第3章 人生は不純なものとの闘いだ
第4章 人間は樹に登りそこなった
第5章 創造すること、それは人間の本能的な衝動だ
第6章 ぼくは抵抗する。その決意はますます固い

自分の中に孤独を抱け

自分の中に孤独を抱け

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MEMO

自分の中に孤独を抱け

◆だいたい日本人ぐらいひとの目を気にする国民はいない。

自信を感じるときもダメだと思うときも、
さらには自分がどうするか決めるときでさえ、
自分自身を土台にしないで他人の目を意識する。

ひとに認められたり褒められたりすれば自信をもち、
「おまえはダメだ」と言われるとペシャンコになる。

道徳的なことでも、
判断したり行動したりするときでも、
ひとがどう思うだろうかと真っ先に考える。

要するにひとの判断で動いているってことだ。

◆働かなければ食えないなんて、
不自由な、奴隷的で卑しい生き方を考え出した奴はケシカランと、
つくづく思う。

鳥を見たって、
猿を見たって、
じつに胸がすーとするほど鮮やかに生きているじゃないか。

彼らは日なたぼっこでもしながら、
自然に与えられたものを食えばいい。

もちろん彼らにだって食わんがための努力、
戦い、力関係はあるだろう。

群れの掟だってある。

でも、モラルとか社会なんていう、
生産に由来する人間関係のいやったらしさ、
まわりくどいごまかし、
粘りつく重っくるしさはないはずだ

人間社会の惨憺たる営み…
賃上げ闘争やストライキも、
首切りお、就職試験も、
汚職も、税金も、勤務評定も、
定年退職も、猿には無援だ

滑ったの転んだの。

悔いたり、妬んだり、気をまわしてみたり…
そんな屈辱も、もちろんない

◆大学とは本来、
学問を人生目的にするひと、
あるいはサイエンスなどの特殊技能を身につけるために行くところだ。

そうじゃないなら、
自分が必要と思う期間だけ、
必要な大学に行けばいい

◆山奥で岩がくずれたばかりのときは、
千変万化にとがっていても、
それが谷川を転がされて、
ながい年月かかって押し流され、
川下に落ちつくころには、
あっちへぶつかり、
こっちへぶつかり、
次第に角がとれて、
どれも平々凡々な丸になってしまう

世の中の現象もおなじこと。

精神力もヘチマもありやしない。

河原の見渡すかぎりの砂利のなかで、
もしすり減らされてない結晶体のツノを
ギラギラさせている石があったら、
それこそがモンモノだ。

◆「若者」と「年寄り」。

そんな枠は無意味だ。

ほんとうに生きている者はみな、
一人ひとりが若者であり年寄りであって、
全人間として生きている。

◆他を意識し、
諸条件を知り、
それに順応した瞬間から、
ほとんどの人間はしぼんでしまう。

小学校というシステムに入ったとたんに、
それを思い知らされる。

純粋な夢をかき消して、
他から決められた基準のほうにあわせて、
オリてしまう。

その時点から老化がはじまる。

ほんとうの人間は老いない。

精神は己を決意した瞬間からふくらみつづける。

あらゆる闘い、
経験に耐え、
つらぬきながら、
運命をのり超え、
いのちを輝かせていく

それがほんとうの青春だ。

◆なぜ近ごろこんなに老人問題が注目を浴び、
関心を巻き起こしているのか。

一生を通じてほんとうに生きていないひと、
不毛な群れが増えてきたからだろう。

現代社会はあまりにもがっちり組織されている。

物質的生活条件はたしかに楽になっているし、
表面的にはかなりの問題は解消された。

しかし見えない奥には大きな退廃がある。

あらゆるものが官僚的に、
自動的に動いていくような世界だ。

もしシステムをはずれて、
自分ひとりで強烈な闘いをつづけていこうとすればどうなるか。

ほとんど勝ち目のない、
無目的な闘いにならざるを得ないだろう。

孤立無援であらゆる抵抗を超える、
挑戦の意志が必要だ。

ゆえにほとんどの人間は諦め、
闘いを放棄し、
自他を適当に調節する

そうなったら、もうほんとうに生きているとはいえない。

現代の虚無感はそこに根ざしているってことを忘れちゃいけない。

◆孤独で自由に生きれば、
老いるきっかけがない。

だから老いない。

永遠の青春…そのかわり、
一歩でも身を引いたら負けだ。

絶対に妥協しない。

激しく挑みつづける

それしかない。

◆いのちの流れは自分のリズムで決めればいいのに、
若者とは社会人とか、学生、サラリーマンというように、
いつでも相対的なカテゴリーに自分を置いて、規制する。

だから「老人」のレッテルを貼られれば、
老人になる。

それはつまり、
枠にはまることによって自分の責任をとらない、
運命に甘える口実にしているだけだ

◆生きるとは闘うこと、
人生に挑むこと。

「挑み」をやめてしまった、
その瞬間から老人になる

諦めて、オリてしまったあとは、
ただ惰性的に肉体があるだけで、
ほんとうに生きているとはいえない。

生理的な老化現象と、
人間的な老いとを区別すべきだ。

ものは時がたてば古くなる。

生物だって老化する。

それは事実だ。

でも、生まれたての若い星と、
無限の時を過ごしてふたたび爆発して消滅しようとしている年とった星と、
どちらに価値があるかなんて比べようがない。

おなじように人間だって、
時間と存在価値は関係ない。

瞬間に生きているんだから。

人間のいのちは、
たとえ若者だろうが高齢者だろうが、
背後に何百万年、何億年という歴史、
その因果を背負っている

そういう絶対感を前にして、
暦をめくってケチケチ記録するような、
戸籍上の年齢なんかなんの意味がある?

ぼくたちはそんなことのために生まれてきたんじゃない。

◆ひとは老いるべきじゃない。

そして老いた以上は死ぬべきだ。

それを前提に生きるほうがいい。

◆俗にいう未開のひとたちは、
現代人よりむしろ純粋に、
直接に生活をつかんでいるし、
人間の生き方の根本についての哲学をもっている。

原始社会に多くある例だが、
肉体的に衰え、
「老い」を自覚した老人は、
自分で姿を消し、静かに去っていく

◆だれのために、
どんなひとたちが祝うのか知らないが、
「老いた、だから敬いましょう」と言われて、
なんの意味があるのか?

老人を、
つまりは不用物を社会から敬して遠ざけようとする
功利的な仕組みが透けてみえる。

そんなものはすっとばして、
みんな太陽のもとで、
青春を爆発させる祭りをやるべきだ。

ひとは「老い」を認めるべきじゃない

◆未知に賭けることをやめた途端、
青春は失われる。

——————————————————
◆そもそもこの世の中に完成なんてものは存在しない。

完成なんて他人が勝手にそう思うだけでね。

世の中を支配している「基準」という意味のない目安で、
他人が勝手に判断しているだけだ。

ほんとうに生きるとは、
「自分は未熟だ」という前提のもとに生きること

それを忘れちゃいけない。

人間はだれもが未熟なんだ

◆青春は年とともに失われていくもの。

そう思われているようだが、
ぜんぜんちがう。

青春は年齢じゃない

たんなる人生のふりだし、
未熟な時期と片づけるべきものではないし、
まして若さに甘えることじゃない。

青春とは獲得していくものだ

世界とぶつかりあい、傷つきながら。

青春こそ生きがいだ。

それを失ったまま生きる意味がない。

もしそれを「おとな」と呼ぶなら、
大人とは「生きがいある人生をオリてしまった人間」
と言うべきだ。

つねに無条件の挑戦、無目的の闘いをつづけることこそが
ほんとうに生きるということだ

◆ひとはなんのために生まれているのか。
なぜ生きているのか。

闘うためだよ。

ここで言う闘いとは、
無目的的な闘い」だ。

闘うために人生を生きる。

そう覚悟したとき、
ほんとうの青春が現れる。

人生全体が青春になる。

◆人間のドラマは…

いつだって自分が中心なんだ。

◆制約の多いところで行動することこそ、
つまり成功が望めず逃げたくなるときにこそ、
無条件に挑む。

それが人間ということであり、
生きがいだからだ。

あらゆる条件が否定的であればあるほど、
逆に行動を起こす

そのとき大切なことは、
中途半端はぜったいにダメだということ。

中途半端って不明朗なんだよ。

そういうときこそ、
とことん明朗でなければないけない。

◆学生時代は学校の勉強さえしていればいいっていうのが
日本の精神状態だし、
みんなそう考えている。

人生について考えたり勉強したりすることをせず、
学校の勉強、形式的な勉強に追われてしまう。

そういうことは「いずれ社会に出てから」なんて思っている。

でも、実際にそうなると、
今度は会社の社内事情に明るくなることに一生懸命になる。

前後左右、つまりは上役や同僚、
そういう人間関係や会社組織の内部の関係を
適切に処理することに血道をあげる。

そっちを習い覚えることに精一杯で、
ついに人生の勉強はしない。

仕事は忙しいし、
夜帰って疲れているのに、
「生きがいとはなにか」
を考えるなんてバカらしく思える。

結婚して家庭を持つようになると、
型どおりの家庭生活に入ってしまう。

結局、自分の人生とはなにか、
なぜ自分は生きているのか、
を考えることがないまま、
なんでも自分の代わり「代用」で済ませてしまう。

賭けるなら、
代用ではなく自分自身に、
なま身の自分に賭けるしかないのに…

◆人間がいちばん人間的なのは、
孤独であるときなんだ。

だから、孤独を悲壮感でとらえるな。

◆孤独と単独はちがう。

孤独であるってことは、
全体であるということ。

単独はそこから逃げちゃうこと。

◆ひとはみな、
この社会、集団のなかに生まれ、
社会的存在として生きている。

だが同時に、
徹底的に孤独な存在だ。

ひとはだれもが「みんな」であると同時に孤独なんだ

◆ひとはなんのために生まれてくるのか。
なぜ生きているのか。
闘うためだよ。
闘う孤独者であること。
それがほんとうの純粋だとぼくは思う。

岡本 太郎

◆まわりに合わせるだけでは、
ほんとうの人生ははじまらない

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