嫌われる勇気(アドラーの教え)- その8

あなたの人生は「いま、ここ」で決まる

世界が複雑に見えるのは、「わたし」の主観がそうさせているのだ。人生が複雑なのではなく、「わたし」が人生を複雑にし、それゆえ幸福に生きることを困難にしている。フロイト的な原因論ではなく、目的論に立脚すべきである。過去に原因を求めてはいけない、トラウマを否定する。

人は過去の原因に突き動かされる存在ではなく、なにかしらの目的を達成するために動いている。世界や自分への意味づけ(ライフスタイル)を変えれば、世界との関わり方、そして行動までも変わらざるを得なくなる。この「変わらざるを得なえない」ということを忘れない。あなたは「あなた」のまま、ただライフスタイルを選びなおせばいい。シンプルである。

アドラーの目的論は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」といっている。自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ。すべての悩みは対人関係である。


劣等感は主観的な思い込み

劣等感とは、自らへの価値判断に関わる言葉である。自分には価値がないのだ、この程度の価値しかないのだ、といった感覚。身長が低い人が、自分の身長に感じるのは、あくまでも他者との比較(つまり対人関係)のなかで生まれた、主観的な「劣等感」なのである。もしも比べるべき他者が存在しなければ、自分の身長が低いなどと思わない。

さまざまな劣等感を抱え、それに苦しめられている。しかし、それは客観的な「劣等性」ではなく、主観的な「劣等感」である。つまり、我々を苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのである。主観にはひとつだけいいところがある。それは、自分の手で選択可能だということだ。自分の身長について長所と見るか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、どちらをも選ぶことができる。

我々は、客観的な事実を動かすことはできない。しかし、主観的な解釈はいくらでも動かすことができる。そして私たちは主観的な世界の住人である。劣等感とは自らへの価値判断に関わる言葉である。そして価値とは、社会的な文脈の上で成立している。価値の問題も最終的には対人関係に還元されていく。すべての悩みは対人関係の悩みである。


言い訳としての劣等コンプレックス

人は無力な存在としてこの世に生を受ける。そしてその無力な状態から脱したいと思う、普遍的な欲求を持っている。これを「優越性の追求」と呼ぶ。簡単に「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」と考えればよい。

これと対をなすのが、劣等感である。優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である。劣等感も、使い方さえ間違わなければ、努力や成長の促進剤となる。ところが一歩踏み出す勇気をくじかれ、「状況は現実的な努力によって変えられる」という事実を受け入れられない人たちがいる。なにもしないうちから「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」と、諦めてしまう人たちである。それは、劣等感ではなく、劣等コンプレックスである。

劣等感それ自体は、別に悪いものではない。劣等感は努力と成長を促すきっかけにもなりうる。劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のことを指す。「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考える。あるいは、「わたしは器用が悪いから、結婚できない」と考える。このように日常生活のなかで、「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感ではなく、劣等コンプレックスである。

その9へ続く…

book86

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