嫌われる勇気(アドラーの教え)- その9

権力争いからの復讐

私的な怒り(私憤)と、社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違う。私的な怒りは、すぐに冷める。一方の公憤は、長く継続する。私憤の発露としての怒りは、他者を屈服させるための道具にすぎない。もし面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考える。

直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考える。対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になる。そうならないためにも、権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならない。


非を認めることは「負け」じゃない

相手が闘いを挑んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。相手のアクションに対してリアクションを返さない。怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能である。怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のである。

我々には、言葉がある。言葉によってコミュニケーションをとることができる。言葉の力を、論理の言葉を信じる。人は、対人関係のなかで、「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れている。あなたが正しいと思うなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべきである。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではない。


赤い糸と頑強な鎖

「交友のタスク」とは?これは仕事を離れた、もっと広い意味の友人関係である。仕事のような強制力が働かないだけに、踏み出すのも深めるのも難しい関係になる。友達や知り合いの数には、なんの価値もない。考えるべきは関係の距離と深さである。アドラー心理学とは、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学である。他者が変わるのを待つのではなく、そして状況が変わるのを待つのではなく、あなたが最初の一歩を踏み出す。

「愛のタスク」とは?これは二つの段階に分かれる。ひとつは、恋愛関係。そしてもうひとつが家族関係、とくに親子関係になる。仕事、交友と続いてきた3つのタスクのうち、愛のタスクがもっとも難しい。アドラー心理学は、相手を束縛することを認めない。相手が幸せそうにしていたら、その姿を率直に祝福することができる。それが愛である。

互いを束縛し合うような関係は、やがて破綻してしまう。一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べない。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができる。劣等感を抱くでもなく、優越感を誇示する必要にもかられず、平穏な、きわめて自然な状態でいられる。ほんとうの愛とは、そういうことである。

一方の束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えである。一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない。恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢もある。ところが、親子関係では原則としてそれができない。恋愛関係が赤い糸で結ばれた関係だとするならば、親子は頑強な鎖でつながれた関係である。

アドラー心理学では、個人としての「自立」と、社会における「協調」とを大きな目標とて揚げる。そして、それらの目標を達成するには、「仕事」「交友」「愛」という3つのタスクを乗り越える必要がある。

その10へ続く…

book86

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