嫌われる勇気(アドラーの教え)- その11

対人関係のゴールは「共同体感覚」

対人関係のゴールは「共同体感覚」である。もし他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、我々はそこに自らの「居場所」を見出すことができる。さらには、仲間たち(共同体)のために貢献しようと思うようになる。このように他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚という。ここでいう共同体とは、家庭、学校、職場、地域社会だけでなく、国家や人類などを包括したすべてである。時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる。つまり「共同体」とは、過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだ。

アドラー心理学では、すべての悩みは対人関係の悩みであると考える。不幸の源泉は対人関係にある。幸福の源泉もまた対人関係にある。そして共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考える、もっとも重要な指標なのだ。ふたりの人間がいたら、そこに社会が生まれ、共同体が生まれる。共同体感覚を理解するには、まずは「わたしとあなた」を起点にするといい。そこを起点に…自己への執着(self interest)を、他者への関心(social interest)に切り替えていく。


なぜ「わたし」にしか関心がないのか

ここでは「自己への執着」という言葉を「自己中心的」と言い換える。自己中心的な人物に対する一般的なイメージには、もうひとつのタイプがある。じつは「課題の分離」ができておらず、承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的である。承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていない。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのだ。

「他者からどう見られているか」ばかり気にかけた生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルである。だからこそ「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えなければならない。


あなたは世界の中心ではない

自分の人生における主人公は「わたし」である。しかし「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部である。自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまう。こうした人たちにとっての他者とは、「わたしのためになにかをしてくれる人」でしかない。

みんなわたしのために動くべき存在であり、わたしの気持ちを最優先に考えるべきだと、半ば本気で思っている。彼らは「人生の主人公」を飛び越えて、「世界の主人公」になっている。そのため、他者と接するときにも「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ばかり、ところがその期待が毎回満たされるわけではない。なぜなら、「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」からである。そして憤慨する。

「あの人はわたしに何もしてくれなかった」「あの人はわたしの期待を裏切った」「あの人はもう仲間ではない、敵だったのだ」と。自分が世界の中心にいる、という信念を持っている人は、遠からず「仲間」を失う結果になる。ところが、地球儀で世界をとらえると…すべての場所が中心でありながら、すべての場所が中心ではない。見る人の場所や角度によって、無限の中心が点在する。

「あなたは世界の中心にいるわけではない」ということも同じことである。あなたは共同体の一部であって、中心ではない。我々はみな「ここにいてもいいんだ」という所属感を求めている。しかしアドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自ら積極的にコミットすることによって得られる。積極的にコミットするとは、「人生のタスク」に立ち向かうことである。つまり、仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避することなく、自ら足を踏み出していく。

あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない。だから、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人に何を与えられるのか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットである。


より大きな共同体の声を聴け

対人関係の入口には「課題の分離」があり、ゴールには「共同体感覚」がある。そして共同体感覚とは、「他者を仲間だと見なし、そこに自分の居場所があると感じられること」である。共同体の範囲が「無限大」なのだと考えればよい。我々のすべてが地球という共同体に属し、宇宙という共同体に属している。目の前の共同体だけに縛られず、自分がそれとは別の共同体、もっと大きな共同体、たとえば国や地域社会に属し、そこにおいてもなんらかの貢献ができているという気づきを得る。

人は共同体を離れて「ひとり」になることなど絶対にありえないし、できない。共同体とは、家庭や会社のように目に見えるものだけではなく、目に見えないつながりまで含んでいる。我々はみな複数の共同体に属している。家庭に属し、学校に属し、企業に属し、地域社会に属し、国家に属し、といったように。仮にあなたが学生で「学校」という共同体を絶対視しているとする。

ところが、いじめであったり、友達ができなかったり、授業についていけなかったり、学校という共同体に対して所属感を持てないことがある。このとき、学校こそがすべてだと思っていると、あなたはどこにも所属感を持てないことになる。そしてより小さな共同体、たとえば家庭のなかに逃げ込み、そこに引きこもったり、家庭内暴力などに走る。

しかし、ここで注目してほしいのは「もっと別の共同体があること」、特に「もっと大きな共同体があること」である。もしも学校に居場所がないのなら、学校の「外部」に別の居場所を見つければいい。転校するのもいいし、退学したっていい。ひとたび世界の大きさを知ってしまえば、自分が学校に感じていた苦しみが、「コップのなかの嵐」であることがわかる。

自分の部屋に閉じこもるのは、コップのなかにとどまったまま、小さなシェルターに避難しているようなものである。つかの間の雨宿りはできても、嵐が収まることはない。我々が対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則である。

学校なら学校という共同体のコモンセンス(共通感覚)で物事を判断せず、より大きな共同体のコモンセンスに従う。目の前の小さな共同体に固執することはない。もっと大きな共同体は、かならず存在する。

その12へ続く…

book86

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