嫌われる勇気(アドラーの教え)- その12

「勇気づけ」というアプローチ

人はなぜ介入してしまうのか?その背景にあるのは、実は縦の関係である。対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。ここでの介入は、操作に他ならない。子供に「勉強しなさい」と命令する親などは、まさに典型である。本人としては善意による働きかけのつもりでも、結局は土足で踏み込んで、自分の意図する方向に操作しようとしているのである。目の前に苦しんでいる人がいるときは、介入ではなく「援助」をする必要がある。介入とは、他者の課題に土足で踏み込み、「勉強しなさい」とか「あの大学を受けなさい」と指示することである。

一方援助とは、大前提に課題の分離があり、横の関係がある。勉強は子供の課題である、と理解した上で、できることを考える。具体的には、勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「自分は勉強ができるのだ」
と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるよう働きかける。強制ではなく、あくまでも課題を分離したまま、自力での解決を援助する。

「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」という、アプローチである。こうした横の関係に基づく援助のことを、「勇気づけ」と呼ぶ。人が課題を前に踏みとどまっているのは、その人に能力がないからではない。能力の有無ではなく、純粋に「課題に立ち向かう”勇気”がくじかれていること」が問題なのだ、と考える。

人は他者からほめられるほど、「自分には能力がない」という信念を形成していく。あなたが、ほめてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは縦の関係に従属し、「自分には能力がない」と認めているのと同じである。ほめるということは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」なのだから。ほめてもらうことが目的になってしまうと、結局は他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになる。まずは課題の分離をすること。そしてお互いが違うことを受け入れながら、対等の横の関係を築くこと。


自分には価値があると思えるために

仕事を手伝ってくれたパートナーに「ありがとう」と、感謝の言葉を伝える。あるいは「うれしい」と素直な喜びを伝える。「助かった」とお礼の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチである。一番大切なのは、他者を「評価」しないこと。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉である。

もしも横の関係を築けているなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくる。ほめられるということは、他者から「よい」と評価を受けている。そして、その行為が「よい」のか「悪い」のかを決めるのは、他者の物差しである。もしもほめてもらうことを望むなら、他者の物差しに合わせ、自らの自由にブレーキをかけるしかない。

一方、「ありがとう」は評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉である。人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知る。人は、自分に価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる。人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。

共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、我々は自らの価値を実感することができる。「共同体感覚」や「勇気づけ」もすべてここにつながる。

横の関係を築き、勇気づけのアプローチをしていくこと。これはすべて「わたしは誰かの役に立っている」という生の実感につながり、回りまわってあなたの生きる勇気につながる。


ここに存在しているだけで、価値がある

他者のことを「行為」のレベルで見ると…「ありがとう」や「おかげで助かった」と言える場面が見つからない。「行為」の観点から考えると、寝たきりの老人は周囲に世話をかけるだけで、なんの役にも立っていないように映るかもしれない。そこで他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見る。

他者が「なにをしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていく。存在のレベルで考えるなら、我々は「ここに存在している」というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、
価値がある。自分のことを「行為」のレベルで考えず、まずは「存在」のレベルで受け入れていく。

我々は他者を見るとき、ともすれば「自分にとっての理想像」を勝手にこしらえ、そこから引き算するように評価してしまう。ありもしない理想の子供像と引き比べ、我が子にあれこれ不平不満を抱いてしまう。理想像としての100点から、徐々に減点する。これはまさしく「評価」の発想である。

そうではなく、ありのままの我が子を誰とも比べることなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはず。

たとえば、引きこもっている子供が、食事の後に洗い物を手伝っていたとする。このとき「そんなことはいいから、学校に行きなさい」と言ってしまうのは、理想の子供像から引き算している親の言葉である。そんなことをしていたら、ますます子供の勇気をくじく結果になる。しかし、素直に「ありがとう」と声をかけることができれば、こどもは自らの価値を実感し、新しい一歩を踏み出すかもしれない。

誰かがはじめなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。まずはあなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。


人は「わたし」を使い分けられない

人は生きているだけで誰かの役に立っているし、生きているだけで自らの価値を実感できる。まずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくことからスタートする。縦の関係を築くか、それとも横の関係を築くか。これはライフスタイルの問題であり、人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用な存在ではない。

要は「この人とは対等に」「こっちの人とは上下関係で」とはならない。もしもあなたが誰かひとりでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」でとらえている。もしも誰かひとりでも横の関係を築くことができたなら、そこを突破口にして、あらゆる対人関係が「横」になっていく。

会社組織であれば、職責の違いは当然ある。誰とでも友達付き合いをしなさい、親友のように振る舞いなさい、といっているのではない。そうではなく、意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切である。場の空気を読んで縦の関係に従属することは、自身の責任を回避しようとする、無責任な行為である。

その13へ続く…

book86

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする