嫌われる勇気(アドラーの教え)- その13

自己肯定ではなく、自己受容

無邪気な自分に自信を持てない。そしてありのままの自分による対人関係を回避しようとする。この問題を解決するには、共同体感覚を身につける必要がある。具体的には、自己への執着(self interest)を他者への関心(social interest)に切り替え、共同体感覚を持てるようになること。そこで必要になるのが、「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」である。

我々は「わたし」という容れ物を捨てることもできないし、交換することもできない。しかし、大切なことは「与えられたものをどう使うか」である。「わたし」に対する見方を変え、いわば使い方を変えていく。自己肯定と自己受容には明確な違いがある。自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることである。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方である。

一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れて、できるようになるべく、前に進んでいくことである。自らに嘘をつくことではない。わかりやすくいえば、60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、本当の自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定。それに対し、60点の自分をそのまま60点として受け入れたうえで「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容である。

自己受容とは、「肯定的なあきらめ」に言い換えることもできる。課題の分離と同様、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極める。我々は「なにが与えられているか」について、変えることはできない。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができる。だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかない。自己受容とは、そういうことである。

交換不能なものを受け入れること。ありのままの「このわたし」を受け入れること。そして変えられるものについては、変えていく「勇気」を持つこと。それが自己受容である。我々にはなにかの能力が足りないのではない。ただ「勇気」が足りていない。すべては「勇気」の問題なのである。


若者は大人よりも前を歩いている

たとえ家族から「ありがとう」の言葉が聞けなかったとしても、食器を片付けながら「わたしは家族の役に立てている」と考えてほしい。他者がわたしに何をしてくれるかではなく、わたしが他者になにをできるかを考え、実践していきたい。どうしてここで貢献感が持てるのか?これは家族のことを「仲間」だと思えているからである。そうでなければ、そうしたって「なぜわたしだけが?」「なぜみんな手伝ってくれないのか?」という発想になってしまう。

他者が「仲間」であるなら、いかなる貢献も偽善にならないはずである。自己受容、他者信頼、他者貢献はひとつとして欠かすことができない、いわば円環構造として結びついている。ありのままを受け入れる「自己受容」があるからこそ、裏切りを怖れることなく「他者信頼」することができる。そして他者に無条件の信頼を寄せて、人々は自分の仲間だと思えているからこそ、「他者貢献」することができる。さらに他者に貢献するからこそ、「わたしは誰かの役にたっている」と実感し、ありのままの自分を受け入れることができる。

行動の目標

① 自立すること
② 社会と調和して暮らせること

この行動を支える心理面の目標

① わたしには能力がある、という意識
② 人々はわたしの仲間である、という意識

①にある「自立すること」と「わたしには能力がある、という意識」は、自己受容に関する話である。一方、②にある「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である、という意識」は、他者信頼につながり、他者貢献につながっていく。人生の目標は共同体感覚だというわけだ。


ワーカホリックは人生の嘘

世の中は善人ばかりではない。しかし、このとき間違っていけないのは、いずれの場合も攻撃してくる「その人」に問題あるだけであって、決して「みんな」が悪いわけではない、という事実である。アドラー心理学では、こうした生き方のことを「人生の調和」を欠いた生き方だ、と考える。これは物事の一部だけを見て、全体を判断する生き方である。

「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。残りの7人は、どちらでもない人々だ。」このとき、あなたを嫌う1人に注目するか。それともあなたのことが大好きな2人に注目するのか。あるいは、その他大勢である7人に注目するのか。

人生の調和を欠いた人は、嫌いな1人だけを見て「世界」を判断している。対人関係がうまくいかないのは、自己受容や他者信頼、または他者貢献ができていないことが問題なのに、どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。それは人生の調和を欠いた、誤ったライフスタイルである。

ワーカホリックの人。この人たちもまた、明らかに人生の調和を欠いている。ワーカホリックの方々は、人生の特定の側面だけに注目している。彼らは「仕事が忙しいから家庭を顧みる余裕がない」と弁明する。しかし、これは人生の嘘である。仕事を口実に、他の責任を回避しようとしているにすぎない。本来は家事にも、子育てにも、あるいは友人との交友や趣味にも、すべてに関心を寄せるべきであって、どこかが突出した生き方などアドラーは認めない。

「仕事」とは、会社で働くことを指すのではない。家庭での仕事、子育て、地域社会への貢献、趣味、あらゆることが「仕事」なのであって、会社など、ほんの一部にすぎない。会社の仕事だけしか考えないのは、人生の調和を欠いた生き方である。自分を「行為のレベル」で受け入れるか、それとも「存在のレベル」で受け入れるか。これは「幸せになる勇気」に関わってくる問題である。


人はいま、この瞬間から幸せになることができる

人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことである。「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役にたっている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれる。この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわない。あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではない。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。

本当に貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。つまり他者貢献していくときの我々は、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいい。すなわち「幸福とは、貢献感である」。それが幸福の定義である。行為のレベルであれ、あるいは存在のレベルであれ、自分は誰かの役に立っていると「感じる」こと、つまり貢献感が必要になる。

人が承認を求めるのは…人は自分を好きになりたい。自分には価値があるのだと思いたい。そのためには「わたしは誰かの役に立っている」という貢献感がほしい。そして貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めている。ただし、貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望みどおりの人生を歩まざるを得ない。

承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。我々は自由を選びながら、なおかつ幸福をめざす存在である。対人関係における自由は普遍的なものである。本当に貢献感が持てているなら、他者からの承認はいらなくなる。わざわざ他者から認めてもらうまでもなく、「私は誰かの役に立っている」と実感できているのだから。つまり、承認欲求にとらわれている人は、いまだ共同体感覚を持てておらず、自己受容や他者信頼、他者貢献ができていないのである。

まとめると…人は「わたしは誰かの役に立てている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる。しかしそこでの貢献は、目に見えるかたちでなくてもかまわない。誰かの役に立てているという主観的な感覚、つまり「貢献感」があればそれでいい。すなわち、幸福とは「貢献感」のことである。


「特別な存在」でありたい人が進む、ふたつの道

特別によくあろうとすることも、あるいは特別に悪くあろうとすることも、目的は同じである。他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になること。それだけを目的としている。本来、勉強であれスポーツであれ、なにかしらの結果を残すためには、一定の努力が必要になる。ところが、「特別に悪くあろう」とする子供、すなわち問題行動に走る子供たちは、そうした健全な努力を回避したまま、他者の注目を集めようとする。これを「安直な優越性の追求」と呼ぶ。

あらゆる問題行動、たとえば不登校やリストカット、未成年による飲酒や喫煙なども、すべては「安直な優越性の追求」である。引きこもりも同様である。親や大人たちは、叱るという行為を通じて、注目を与えているのである。


普通であることの勇気

アドラー心理学が大切にしているのが「普通であることの勇気」という言葉である。なぜ「特別」になる必要があるのか?それは「普通の自分」が受け入れられないからである。だからこそ、「特別によくある」ことがくじかれたとき、「特別に悪くある」ことへと極端な飛躍をしてしまう。しかし、普通であること、平凡であることは、ほんとうによくないことなのか。なにか劣ったことなのか。実は誰もが普通なのではないか。そこを突き詰めて考える必要がある。

もし、あなたが「普通であることの勇気」を持つことができたなら、世界の見え方は一変するはずである。普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえている。普通であることとは、無能なのではない。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などない。

book86

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