嫌われる勇気(アドラーの教え)- その3

自慢するひとは、劣等感を感じている

劣等感がある状態、それは現状の「わたし」になにかしらの欠如を感じている状態である。そうなると、欠けた部分をどう穴埋めするかが問題となる。欠如した部分を、どのように補修していくか。もっとも健全な姿は、努力と成長を通じて補修しようとすることである。

しかし、その勇気を持ちえていない人は、劣等コンプレックスに踏み込んでしまう。劣等コンプレックスは、もうひとつの特殊な心理状態に発展していくことがある。それは「優越コンプレックス」である。劣等コンプレックスでも我慢できない。そうなると人は、もっと安直な手段によって補修しようと考える。

あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸る。わざわざ言葉にして自慢している人は、むしろ自分に自信がない。もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているにすぎない。自慢は劣等感の裏返しである。ほんとうに自信を持っていたら、自慢などしない。劣等感が強いからこそ、自慢する。

劣等コンプレックスと優越コンプレックスは、言葉の響きこそ正反対であるが、実際にはつながっている。自らに降りかかる不幸を、まるで自慢するかのように語る人を不幸自慢と呼ぶ。不幸自慢の人は、不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとする。引きこもりの人たちは、しばしば不幸を武器にした優越感に浸る。

私たちの文化のなかで、誰が一番強いか自問すれば、赤ん坊である。赤ん坊は支配するが、支配されることはない。赤ん坊は、その弱さによって大人たちを支配している。そして、弱さゆえに誰からも支配されない。


人生は他者との競争ではない

「優越性の追求」とは、自らの足を一歩前に踏み出す意思であって、他者よりも上をめざさんとする競争の意思ではない。誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいい。もちろん、他者と自分を比較する必要もない。健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれる。

我々は誰もが違っている。まったく同じ人間など、どこにもいない。他者との間に違いがあることは認める。しかし、我々は「同じではないけれど対等」なのだ。人は誰しも違っている。その「違い」を、善悪や優劣と絡めてはいけない。どんな違いがあろうとも、我々は対等なのである。我々が歩くのは、誰かと競争するためでない。いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値がある。


お前の顔を気にしているのはお前だけ

対人関係の軸に、「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃げられず、不幸から逃れることができない。競争の先には、勝者と敗者がいる。競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感である。常に自分と他者とを引き比べ、あの人に勝った、この人には負けた、と考える。このときあなたにとっての他者とは、どんな存在になるか?単なるライバルではない。他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになる。

競争の恐ろしさはここにある。競争の中に身を置いている人は心の安まる暇がない。他者を信じることができない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからである。

ある人が少年時代、長いこと鏡に向かって髪を整えていた。すると彼は、祖母からこういわれた。「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」と。それ以来、彼は生きているのが少しだけ楽になったという。

対人関係を競争で考えると、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえて、祝福できない。しかし、競争から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなる。「負けるかもしれない」という恐怖からも解放される。他者の幸せを心から祝福できるようになり、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになる。「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになる。

その4へ続く…

book86

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