嫌われる勇気(アドラーの教え)- その4

直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか

対人関係はどれだけ大きく考えても足りないくらい、重要な問題である。どうして他者を「敵」だと見なし、「仲間」だと思えないのか。それは、勇気をくじかれたあなたが「人生のタスク」から逃げているからである。アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方にはっきりとした目標を掲げている。

行動面の目標が、次の二つ。

① 自立すること
② 社会と調和して暮らせること

そして、この行動を支える心理面の目標として、次の二つ。

① わたしには能力がある、という意識
② 人々はわたしの仲間である、という意識

そしてこれらの目標は、「人生のタスク」と向き合うことで達成できる。アドラーは、こども時代から自立するまでさまざまな対人関係を「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つに分け、まとめて「人生のタスク」と呼んだ。ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係。それが人生のタスクである。

まず、「仕事のタスク」から考えてみる。どんな種類の仕事であれ、ひとりで完結する仕事はない。距離と深さという観点から考えると、仕事の対人関係はもっともハードルが低いといえる。仕事の対人関係は、成果というわかりやすい共通の目標があるので、少しぐらい気が合わなくても協力できるし、協力せざるをえないところがある。

そして「仕事」の一点によって結ばれている関係であるかぎり、就業時間が終わったり転職したりすれば、他人の関係に戻れる。この段階の対人関係でつまずいてしまったのが、ニートや引きこもりである。


「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない

そもそも、どうして承認を求めるのか?なぜ他者からほめられたいと思うのか?どうして人は他者からの承認を求めるのか?多くの場合それは、賞罰教育の影響である。適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。

賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルにある。ほめてもらいたいという「目的」が先にあるから、誰からもほめてもらえなければ憤慨する。

我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだ。あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要などないのである。自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか。

あなたは、あなただけの人生を生きている。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためである。我々は、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる。承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。

つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。もしあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のである。相手が自分の思う通りに動いてくれなくても、怒ってはいけない。

他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とする。たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当苦しいものになる。なぜなら、いつも他人の視線を気にして、他者からの評価に怯(おび)え、自分が「わたし」であることを抑えている。カウンセリングにくる相談者は、他者の期待、親や教師の期待に応えようとして苦しんでいる。これを理解するには、「課題の分離」という考え方を知る必要がある。


「課題の分離」とはなにか

たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進める。子供が勉強するのかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子供の課題」であって、親の課題ではない。勉強することは子供の課題である。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為である。

我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要がある。そして他者の課題には踏み込まない。およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと(あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること)によって引き起こされる。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変する。

誰の課題かを見分ける方法はシンプルである。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えればよい。世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使う。しかし、親たちは明らかに自分の目的(それは世間体や見栄かもしれないし、支配欲かもしらない)を満たすために動いている。

つまり、「あなたのため」ではなく、「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子供は反発する。アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではない。子供がなにをしているか知ったうえで、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助する用意があることを伝えておく。けれども、子供の課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのである。

ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがある。カウンセリングとはそういうスタンスである。本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけだ。自分を変えることができるのは、自分しかいない。


他者の課題を切り捨てよ

引きこもりの人がどうやって抜け出すかは原則として本人が解決するべき課題である。親が介入することではない。とはいえ、赤の他人ではないのでなんらかの援助は必要になる。このとき、もっとも大切なのは、子供が窮地に陥ったとき、素直に相談しようと思えるか、普段からそれだけの信頼関係を築けているかが大切になる。

自分の子供が引きこもりのときは親自身が「これは子供の課題なのだ」と考える。引きこもっている状況について介入しようとせず、過度に注目することをやめる。そのうえで、困ったときにはいつでも援助する用意がある、というメッセージを送っておく。そうすると、親の変化を察知した子供は、今後どうするのか自分の課題として考えざるを得なくなる。子供の関係に悩んでいる親は、「子供こそ我が人生」だと考えてしまいがち。

要するに、子供の課題までも自分の課題だと思って抱え込んでいる。いつも子供のことばかり考えて、気がついたときに人生から「わたし」が消えている。「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」たとえ我が子であっても、親の期待を満たすために生きているのではない。むしろ距離の近い家族だからこそ、もっと意識的に課題を分離していく必要がある。

信じるという行為もまた、課題の分離である。相手のことを信じること。これはあなたの課題である。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題である。他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を重く苦しいものにしてしまう。もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら(その悩みは人間関係なのだから)まずは、ここから先は自分の課題ではないという境界線を引く。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩である。

その5へ続く…

book86

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