嫌われる勇気(アドラーの教え)- その5

対人関係の悩みを一気に解消する方法

自らの生について、あなたにできることは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」である。その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話である。他者からの視線が気になっている。他者からの評価が気になっている。これは、あなたが課題の分離ができていないからである。

本来は他者の課題であるはずのことまで、「自分の課題」だと思い込んでいる。「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」というおばあさんの言葉はこの課題の分離の核心を突いている。あなたの顔を見た他者がどう思うのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうこうできるものではない。上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは、「わたし」の課題ではない。理不尽なる感情は、上司自身が始末すべき課題である。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。

わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自らの課題に立ち向かうことである。まずは「これは誰の課題なのか?」を考える。そして課題の分離をする。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きする。そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる。


ほんとうの自由とはなにか

わざわざ嫌われたいと願う人間などいない。とはいえ、我々の努力とは関係なく、わたしのことを嫌う人もいれば、あなたのことを嫌う人もいる。他者から嫌われたくないと思うこと。これは人間にとって、きわめて自然な欲望であり、衝動である。本能的な欲望、衝動的な欲望である。

では、そうした傾向性のおもむくまま、すなわち欲望や衝動のおもむくまま生きること、坂道を転がる石のように生きることが「自由」なのかというと、それは違う。そんな生き方は欲望や衝動の奴隷でしかない。ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度である。我々は石ころではない。傾向性に抗うことができる存在である。

転がる自分を停止させ、坂道を登っていくことができるのである。アドラー心理学では、「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考える。我々は、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。「自由とは、他者から嫌われることである」

あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしである。たしかに嫌われることは苦しい。でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことである。自由を行使したければ、そこにコストが伴う。

そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることである。自由とは「組織から解放」されることではない。たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られない。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれない。

嫌われることは怖れるべきでない。独善的にかまえるのでもなければ、開き直るのでもない。ただ課題を分離する。あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではない。そしてまた、「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」と考えるのも、相手の課題に介入する見返りの発想である。

嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由である。他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫く。自由に生きるとはそういうことである。「嫌われたくない」と願うことはわたしの課題かもしれないが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題である。

「馬を水辺に連れていく」ところまでの努力はする。しかし、そこで水を呑むか呑まないかは、その人の課題である。幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれる。その勇気を持ちこたえたとき、対人関係は一気に軽いものへと変わる。


対人関係のカードは、「わたし」が握っている

殴(なぐ)られたから父との関係が悪いのではなく、父との関係をよくしたくないから殴られた記憶を持ち出している。これは対人関係カード、という観点から考えるといい。原因論で「殴られたから、父との緩解が悪い」と考えているかぎり、いまのわたしには手も足も出せない。しかし、「父との関係をよくしたくないから、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードをわたしが握っていることになる。わたしが「目的」を変えてしまえば、それで済む。

わたしが関係修復の「決心」をするにあたって、相手がどんなライフスタイルを持っているか、わたしのことをどう思っているか、わたしのアプローチに対してどんな態度をとっているかなど、ひとつも関係ない。たとえ相手に関係修復の意思がなくても一向にかまわない。問題はわたしが決心するかどうかであって、対人関係のカードは常に「わたし」が握っている。

多くの人は、対人関係のカードは他者が握っていると思っている。だからこそ「あの人は自分のことをどう思っているだろう?」と気になるし、他者の希望を満たすような生き方をしてしまう。でも、課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っているということに気がつく。わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけだ。その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できるところではない。これも課題の分離である。

他者を操作してはいけないし、操作することはできない。対人関係というと、どうしても「ふたりの関係」や「大勢との関係」をイメージしてしまうが、まずは自分なのだ。承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他人の手に握られたままになる。


叱ってはいけない、ほめてもいけない

「課題の分離」から「共同体感覚」へと進むためには、「横の関係」という概念が必要になる。アドラー心理学では、ほめてもいけないし、叱ってもいけない。ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれている。子供に「えらいわね」とか「よくできたわね」、「すごいじゃない」とほめる母親は、無意識のうちに上下関係をつくり、子供のことを自分よりも低く見ている。

「ほめること」は、上下関係、縦の関係を象徴している。人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」である。そこには感謝も尊敬も存在しない。我々が他者をほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作である。

アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子供を操作するためだからである。誰かにほめられたいと願うこと。あるいは逆に、他者をほめてやろうとすること。これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠である。

アドラー心理学では、あらゆる「縦の関係」を否定し、すべての関係を「横の関係」とすることを提唱している。会社員と専業主婦は、働いている場所や役割が違うだけで、まさに「同じではないけれど対等」である。劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識である。あらゆる人に対して「同じではないけれど対等」という横の関係を築くことができれば、劣等コンプレックスが生まれる余地がなくなる。

その6へ続く…

book86

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