「頭のいい人」はシンプルに生きる―「快適生活」の方法 by ウエイン・W. ダイアー
ウエイン・W. ダイアー
1940年に生まれる。
心理学博士。
マズローの「自己実現」の心理学をさらに発展させた、「個人」の生き方重視の意識革命を提唱、新個人主義の旗手として世界的に評価され、ベストセラーとなった。
世界各国で大ベストセラーとなった『自分のための人生』『小さな自分で一生を終わるな!』『自分の中に奇跡を起こす!』『「いいこと」が次々起こる心の魔法』『ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ』など多くの名著を生み出し、常に注目を集めている…
あなたは、
いまの生き方で、
五年後、十年後、
自信をもって「この人生でよかった!」
と言い切れるだろうか?
心から満足できるだろうか?
「いい意味で自分本位」に考え、
行動しているだろうか?
「自分のために生きる」のは、
決して利己的なことではない。
徹底的に自分のために生きてこそ、
他人への思いやりも生まれる。
これは、
自分の運命の糸は自分であやつり、
自分の生き方を大事にしている人が
口にしない「常識」なのだ。
この本には、
自分を大切にし、
これからの人生を「快適に生きる」ための、
少し過激すぎるほどの処方箋が書かれている…
目次
1 「いい人生」を生きるための約束事
2 簡単にできる「心の鍛え方」
3 無駄なエネルギーは使わない
4 「自分は自分」と賢く割り切る
5 もっと「動ける人」になる
6 生きるのが断然ラクになる「現実」とのつき合い方
7 人生で成功する人の「いい習慣」

MEMO
◆自信があれば「本当の孤独」を楽しめる!
自分の中に自信が芽生え、
それが育ってくると、
孤独というものが
それまで以上に心地よく
感じられるようになる。
自分の話しをとにかくみんなに
聞いてもらいたい、
などと思わなくなる。
あなたが考え、感じ、
口に出し、行動したことの
すべてを、あらゆる人に
理解してもらいたい、
あらゆる人と分かち合いたい
と考えることは、
あなたを犠牲にしてしまう。
プライバシーというものは、
あなたの普段の生活の中でも
非常に重要な部分で、
しかも、幸福を実感するための
必要不可欠なものである。
ことばを変えて言うと、
個人的なものを秘めておくことが、
他人に左右されないための
方法なのである。
他人に理解される必要性を
ことさら感じないようなことに
ついては、秘密にしておけばよい。
◆「他人を変えられる」…これは驕(おご)りである
あなたのことを他人がどう思おうが、
それは彼らだけの問題である。
あなたの意志に関係なく、
人々は自分が信じたいように
信じるものなのだ。
自分がしてほしいと思うことを、
一生懸命に人にやってあげる
ことはできる。
また、一生懸命に人を説得
しようとしたりはできる。
けれども、
彼らの気持ちを動かそうと
四苦八苦して、
結局は自分が折れてしまう
必要などまったくない。
人が自分についてどう思うか、
何をやっても予想できないなら、
彼らの考えに惑わされるのは、
何の意味もない。
◆「ユニークな自分」には、孤独はつきもの
自分はこの世でただ一人のユニークな存在である、
と認識すると同時に、
自分は常に一人ぼっちであることも
認めなければならない。
そう、あなたは孤独なのである。
たとえ何万という人間に囲まれていようが、
また、誰かと愛し合っていようが、
あるいはまた、
部屋で一人でいようがどうしようが、
あなたが感じたように
感じてくれる人などいないのだ。
この避けることのできない
「孤独」というのはつまり、
あなたという人間の存在そのものが、
孤独であるということを
余儀なくさせるということだ。
あなたの感情と思考が、
あなた固有なものであるがゆえに、
孤独なのである。
このような存在として
孤独感を認識するとき、
受け止め方次第では、
それはあなたを非常に自由にもするし、
また奴隷のようにもする。
いずれにせよ、孤独は変えがたい事実だ。
しかし、孤独であることをうまく生かして
自由な生活を送る決心はできる。
◆あなたの最大の敵はあなたの一番身近なところにいる
ある講演会で800名の参加者に、
自分がもっとも犠牲にされていると感じる
ものを5つ書き出してもらった。
驚くことに、
実にその83%は家族に関連した
ものだった。
犠牲の83%が、
家族とのやりとりにおいて
あなたが無力であるためだと
考えてほしい。
最後には家族はあなたを支配し、
あやつってしまうことは想像に難しくない。
それは、あなたもまた、
家族にとって加害者であることを意味する。
家族があなたにかけてくる
典型的な圧力とは、次のようものだ。
強制されて、
いやいや親戚を訪問すること、
かけたくもない電話をかけること、
忙しいのに車で送り迎えしなければ
ならなかったりすること。
あるいはまた、
口うるさい舅(しゅうと)や小姑(こじゅうと)、
機嫌の悪い親類などを我慢しなければ
ならないこと。
ブツブツ言われる、
何かにつけても召使のように扱われる。
いつもみんなの後かたづけをする。
にもかかわらず、
家族からは尊敬もされなければ
感謝もされない。
こんな恩知らずな人々とムダに
時間を過ごさなければならないこと。
しかも、そういう雑務用員として
家族からあてにされているため、
自分のプライバシーがまったく
守れない、などなどである。
家族というのは、
社会が発展していくための礎石となる
単位であり、価値観や生活態度の基礎を
教える主要な集団であることは確かだ。
しかし同様に、
強い敵意や不安、
抑圧を感じる場でもある。
精神病院へ行って患者と
話してみれば、そのことがよくわかる。
彼らはみな、家族との間に何らかなの
問題があったために病院に来ているのである。
彼らが、精神の平穏を乱されて入院しなければ
ならなくなったのは、隣人や雇い主、
あるいは教師や友人とうまくいかなかった
からではない。
ほとんどの場合が、
家族の問題でそうなってしまったのである。
もしも家族の一員が、
あなたを「所有している」と考えているなら、
その考えを正す必要がある。
あるいは、血縁関係をタテに彼らがあなたの
人生についての決定権を持つと考えているとしたら、
その考えも正さなければならない。
そしてもしも、
あなた自身までも、
血のつながりがあるかという理由だけで
家庭を守らなければならないと感じているなら、
その誤りを正す必要がある。
なにも家庭の混乱を奨励しているわけではない。
ただ、あなたの自主性を受け入れてくれない
人に対して、厳しい態度で接すべきだ。
ぜひ、犠牲になるまいと努力してほしい。
そうすれば、
犠牲になるまいとするあなたのその生活態度が
本物かどうか、必ず家族の間で厳しく試される。
この場合、配偶者、かつての配偶者、子ども、
両親、祖父母、すべての姻族、そして、おじ、
いとこなど、すべてを家族として考えていい。
これら巨大な親類群の間で、
あなたは試されるのだ。
そして、ここで勝利することができれば、
あとはもう怖いものなし。
すべてがうまくいく。
◆他人の犠牲になるとは?
自分の人生を、
自分の力で思うように支配できない
人のことを犠牲者という。
ここでいう犠牲者とは、
犯罪による被害を受けた人の
ことではない。
世間一般の犯罪とは
比べ物にならないくらい
巧妙な手口で、
自分自身を盗まれてしまって
いる人のことである。
彼らは、知らないうちに心を
搾取されてしまっている。
では犠牲者とは実際には
どういう人のことなのか。
彼らの特徴は、
他人の命令によって
動いているということだ。
このような人たちは、
知らず知らずのうちに自分の
意に反することをやっていたり、
あるいはまた、
相手にうまく乗せられて、
やらなくてもいいことまでも
やっていたりする。
犠牲になるということは、
このように、
あなたが自分以外の力によって支配され、
コントロールされている
ということである。
そしてこのようなあなたを支配する力は、
私たちの日常生活のいたるところに
潜んでいる。
これをキッパリ拒否すれば、
九分九厘、犠牲者にならずに済む
にもかかわらず、
現実の生活においては、
支配を受け入れ、
さまざまな形で自分自身を
犠牲にしている人が多い。
なぜそうなってしまうのか?
自分の弱さが原因になっている
場合がほとんどである。
人間は、自分の人生を一人で
きちんと走りきっていけるほど強くない。
一人で生きていけるほどの
知恵もないと考える。
このようなとき、
つい他人に頼ろうとする。
そして、強引に自己主張して
リスクを冒すよりも、
自分をあやつる糸を人に
預ける道を選んでしまう。
自分よりももっと利口で強靭な人に、
自分の人生の「手綱」を
とってもらおうとする。
しかし、そのために、
自分の人生が、
自分自身を中心に回っていないとしたら、
どうだろう。
自分を極力殺して
生きなければならないとしたら、
どうだろう。
もしも、晴れやかな気分が持てない
毎日だったら、もしも他人の力で
終始あやつられているような気がするの
だったら…。
これが、
まぎれもなく
犠牲者の陥った状態である。
◆他人の犠牲にならない
あなたはこれから先、
他人の意志に左右されて生きて
いく必要はない。
ましてや他人の犠牲になって
生きていく必要などない。
誰の犠牲にもならず、
他人に左右されずに
自分の意志を貫いて生きていく
ためには、何よりもまず、
自分自身をしっかり見つめ
なければならない。
そして、自分の心をあやつる糸が
他人の手によって勝手に引き回されて
いる現状の数々を、
はっきりと認識しなければならない。
まるであやつり人形のように
生きてきた自分を、見つめ直す。
この地球という星では、
人間同士が互いに相手を支配しようと
日夜絶え間なく争い続けている。
事あらば支配してやろうと、
手ぐすね引いて待ち構えている。
他人に支配されるがままに
生きているならば、
あなたは結局犠牲者にすぎない
ことになる。
自分の気持ちに反して
他人の意のままに動いたり、
人並みな判断力を備えていながら
人に支配されるのは、
やはり惨めなことである。
ただそのためには、
この短い人生の間に、
あなたが自分自身に何を期待して
いるのかをしっかりと認識して
おく必要がある。
そのうえで、
まず「他人の意のままになる犠牲者」
には決してなるまい、
と強く決意することである。
◆シンプルな生き方
世の中には、
自分の力の及ぶものと
及ばないものとがある。
簡単に言えば、
世の中には自分の自由になることと、
ならないことの2つがある。
たとえば、早寝しようとか、
読書するとか、散歩に出かける
といったことは自分の意志による
選択である。
これに反して、
自分の意志をどのように
持ったところで、
またどのような選択をしたところで、
どうにもならないことがある。
たとえば、名声である。
他人の思惑など、
いくら考えても
自分の自由になるものではない。
とすれば、
生き方はひとつである。
自分の選択のきく範囲では、
つまり自分の意志次第のことに
関してはできるだけのことをやり、
その結果に対する他人の思惑を
気にしたところで仕方がない、
ということである。
これはきわめてシンプルな考え方であり、
生き方である。
自分の強さは自分の考え方、
心の持ち方ひとつにある。
◆自分本位に生きる!
あなたは、
いまの生き方で、
5年後、10年後、
自信をもって、
「この人生でよかった!」
と言い切れるだろうか。
あなたはいつも、
「いい意味で自分本位」に考え、
行動しているだろうか。
「自分のために生きる」のは、
決して利己的なことではない。
徹底的に自分のために生きてこそ、
他人への思いやりも生まれる。
これは、
自分の運命の糸は自分であやつり、
自分の生き方を大事にしている人が
口にしない「常識」なのだ。
◆こう考えればいつも「ツイてる日」に
人は、自分の手で自分自身を犠牲にしている。
どういうことか?
現実そのものではなくなく、
現実に対する自分の信条や姿勢
のほうに重きをおいてしまい、
そのために犠牲になっている。
ほとんどの人が、
現実について「解釈」のことばを、
あたかも現実の反映であるかのように
毎日つかっている。
たとえば、
よく「今日は本当にひどい(よい)天気だと言う」。
一見なんてことのないような言葉だが、
実際は「現実に基いたもの」ではない。
なぜなら正しくは、
その日はあなたの解釈次第で
「ひどい天気」にも「よい天気」
にもなるからだ。
あなたが表現しようと決めた通りの日になる。
あなたが雨の日はひどいと考えれば、
雨の日に関してはそのような解釈になる。
でも真実は、
その日は「あるがままの」の日にすぎない。
あなたがひどい天気と解釈しようが
しなかろうが、
そのことはその日とは何の関係もない。
あなたがどう解釈しようが、
その日は、その日以外の何ものでもない、
まさにあるがままの姿でしか存在し得ない。
現実とその解釈とが混同され、
それがあなたの生活に適用された場合、
一見無意味とも思えるこの話しが
重要になってくる。
たとえば、
ちょっとした雨があなたの心に
1日じゅう暗い影を落としている
状態を考えてほしい。
これといった理由があるわけではなく、
ただ雨が降っただけ、である。
このようなとき、
もしもあなたが現実と自分の考えとを
同一視し、そのことに何の疑いも
持たずに生活するとしたらどうなるか。
きっとあなたは、
倉庫いっぱいの苦悩を自分に課し、
それを受け入れて生活するはめになる。
現実とは、
まさしく現実そのものの姿で
あらわれることを理解し、
世の中があるがままに回っていることに
対して気分を害したりしないこと。
そうすれば、
このような心の葛藤や苦悩は
自然となくなる。
だからといって、
何も現実に起こる不正を
改善してはならない、
と言っているわけではない。
不健全だと思っている部分を
よくしてはならないという意味ではない。
なぜなら改善と進歩こそが
成長の核となるものだからである。
しかし、すでに起きてしまったことは、
もう「過ぎ去った」ことだ。
そこから何かを学ぶことはできるにせよ、
そのことでカッカする価値はない。
このように認識することである。
そして、現在すでに進行中で、
もはやあなたには変えようのない事柄についても、
やはり心を痛める必要はない。
その価値もない。
だから、
良いとか悪いとか、
その評価で頭を悩ます必要などない。
ありのままの姿を見ていればよい。