「健康第一」は間違っている

「健康第一」は間違っている by 名郷 直樹

名郷 直樹

1961年名古屋生まれ。
自治医科大学卒業。
愛知県作手村国民健康保険診療所に12年間勤務。
2003年より公益社団法人地域医療振興協会で僻地医療専門医の育成に携わる。
同法人の地域医療研修センター及び東京北社会保険病院臨床研修センターのセンター長を経て、2011年、東京・国分寺市に武蔵国分寺公園クリニックを開院、同院長。
地域家庭医療センター長として、あらゆる健康問題に対処するプライマリ・ケアに従事。
また、20年以上にわたりEBM(根拠に基づく医療)を実践している…

日本は世界一の長寿を達成したが、
健康・長寿願望は止まることを知らない。

このうえ何を望むというのか?

巷にあふれる健康情報や様々な医療データを精査し、
おもに生活習慣病の治療と予防について
根本から問いなおす…

健康より大切なものはないのか?

治療や予防によって損なわれているものは何か?

これからの(本来の)医療の役割をさぐる…

目次

第1部 長寿国日本の現実(世界一の長寿国の現実
健康、寿命、幸福
健康、寿命、幸福を詳しく把握する方法)
第2部 予防・治療のウソ(高血圧と脳卒中
がん検診は有効か―乳がん検診を例に
認知症早期発見の光と影
ワクチン接種がなかなか進まない日本)
第3部 医療の役割(医療はどうあるべきか
解決のための処方箋)
どこへ向かうべきか

「健康第一」は間違っている
「健康第一」は間違っている

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MEMO

「健康第一」は間違っている

◆姥捨山と譲ること

姥捨て山は確かに異常な世界かもしれないが
健康欲を刺激するばかりの現代は、
輪をかけて異常な世界である。

姥捨て山は、
内には生きたいという欲望があるのに、
世間からもうこれ以上生きてはけないとされ、
そこで折り合いをつけて山へ行く。

それに対して現代は、
外からは健康欲を刺激され、
内からも生きたいと思うばかりで
折り合いがつかず、
山へ行くどころか病院へ行く。

せめて、内側から健康欲望を制御して、
山へ行く、というのもひとつの
選択肢なのではないだろうか。

ただ「山へ行く」では多くの人が
受け入れられないだろう。

そこで「譲る」ということが大事になる。

「山へ行く」ことと「譲る」ことは
どういう関係にあるのか。

現代は、老齢になったからといって、
山へ行く必要はない。

それとは別の方法で
「山へ行く」ようなことを考えればよい。

それをここでは「譲る」と呼ぶ。

「譲ること」を実現するためのポイントは、
順番を守ることだけ。

基本的に、先に生まれたものが、
後から生まれてきたものに「譲る」
ということである。

だからここではどうしても対象が
高齢者になってしまう。

ここでは順番という文脈だけを残して、
他のすべての文脈は捨て去らなかればならない。

元気な高齢者も、寝たきりの高齢者も、
「譲る」ということに関して、
何の差別もない。

そうでなければ、
この譲る行為自体が、
また健康欲、生存欲に絡め取られていく。

小さな子どもが病気になったり
死んだりしたときに、しばしば
「代われるものなら代わってやりたかった」
と言う。

すでに病気になってしまったり、
死んでしまったりでは
代わってやることはできないが、
案外代わってあげられることはたくさんある。

これは「譲る」ことそのものにつながっている。

現在高齢者には、
無料あるいは数百円の自己負担で健診が行われる。

それに対して、子どもの予防接種は自費も多い。

自費であれば多くの場合、数千円かかる。

ワクチンによっては数万円というものもある。

無料でないために接種を控える人も多い。

そこで高齢者が子どもに「譲る」のである。

健康欲を刺激するばかりの
高齢者健診の無料化をやめ、
子どもの予防接種を無料にするのである。

これに反対する高齢者もいるかもしれない。

しかし、反対するよりも、
この提案を受けれてたほうが、
子どもとその母親が喜ぶだけでなく、
多くの高齢者自身も結果的に
幸せになれるのではないか。

高齢者が順番を守って、
若い人に譲れるところを譲っていく。

死ぬことを特別視せず、
死ぬことで多くのものを誰かに
譲ることができる。

それを、むしろ前向きに考える。

多くの人は死を前にして
思考が停止してしまう。

しかしそれは誰にとっても
必ず訪れる生の一部にすぎない。

死を自分がいなくなるだけのものと
とらえるのはもったいない。

死と引き換えに何かをもたらす
ことができれば、
それは人生の最後の大仕事ではないか。

これからは、
死ぬことを前提とした医療を基盤とし、
健康欲をコントロールし、
生存欲にきりをつけていくような
医療が重要になってくる。

しかし、現実は、いまだ
「死なないための医療」が王道である。

◆日本において、
長寿はすでに幸福につながってはいない。

健康も幸福につながっていないかもしれない。

にもかかわらず、
相変わらず世の中に流れる情報は
健康につながるものばかりで、
手を替え品を替え次々と提案してくる。

多くの人もそれに関心がある。

しかし、その提案は、
ある特定の価値観に支えられているだけで、
違う視点から見れば、
乳がん検診や認知症の早期発見など、
むしろ健康から遠ざかるような可能性
孕(はら)むものもある。

逆にワクチンのように健康につながる
ものが無視されていたりする。

医療に限界があり、人は死ぬ。

それにもかかわらず、
世の中はとにかく医療を受けることを
勧める方向の情報を流す。

80歳を過ぎても血圧の治療をしよう。

乳がんの検診をうけよう。

認知症を早期発見しよう。

そういう偏った情報ばかりである。

そこには利害関係者がいる。

特定の価値観が存在する。

必ずしも医療を受ける人の幸福が
第一になっているわけではない。

さらに、「死なないための医療」が
行き過ぎた状況がある。

◆長生きは迷惑か?

長生きが迷惑であるというのは、
いまや一般的な考え方のひとつである。

多くの人が、
自分は長生きをして周りに
迷惑をかけたくないと言う。

こういう考え方は、
長生きの不幸を端的に表している。

長生きすると病気になって周囲に
迷惑をかけるから、
病気にならないように気をつける。

しかし、これに期待するのは無理である。

なぜか?

健康に気をつけていても長生きすれば、
結局病気になってしまうからだ。

病気が増加した最大の要因が
加齢であることからも明白である。

病気に気をつけると、
病気にならなくて済むかというと
そうではない。

実は先送りできるだけである。

いくらがんに気をつけて、
がん検診を受けるだけ受けて、
糖尿病や高血圧、高コレステロールに
注意し住民健康診断を毎年欠かさず受けても、
結局は検診の対象にないがんになってしまう
かもしれないし、脳卒中の発症を70歳から
75歳に先延ばしすることができる
だけかもしれない。

健康に気をつけて、
他人に迷惑をかけないように
しようという想いは、
所詮かなわぬ夢である。

これは、本人にとっては二重に苦しい。

「健康に気をつける」こと自体が努力を要する。

そして、その結果長生きすることになれば、
そのことで周りに迷惑をかけるし、
本人は一向に幸福にはなれない。

さらに言うなら、
「健康に気をつけて」という部分が、
すでに健康=善、病気=悪であるという
思考に毒されている。

健康に気をつけることが、
必ずしも善であるとは限らない。

長生きして高齢になると、
多くの医療費を使う、
ひいてはその社会にとって
迷惑をかけることになる。

◆長生きは幸福か?

幸福度にとって健康は最も重要な
項目のひとつである。

そして、その健康は日本において
世界最高レベルで達成されている。

その結果、日本人の幸福は少なくとも
一部としては実現されたはずだ。

しかし、現実はそうではない。

健康も長寿も幸福には
結びつかなかった。

なぜか?

◆日本人は70歳を過ぎたあたりから、
がんと心疾患、さらにその他の多様な
原因や老衰で急激に死んでいく。

それは生活習慣の悪化によるものではなく、
生活環境や生活習慣が改善し、
長生きになったせいである。

日本人の生活習慣は、
むしろ世界で最高といってよい。

日本人の生活習慣は改善傾向にあり、
それが高齢化によるがんや心疾患による
死亡を増加させ、死亡の原因を多様化させている
ということをしっかり認識する必要がある。

◆日本は、この100年間、
より長生きを目指し、
すでにそれを達成してきた。

日本は世界最高の長寿国なのである。

それでもなお、
もっと長寿を目指すという方向性は、
世の中にすんなり受け入れてられている
ように思える。

それはいったいなぜなのか?

あるいは、長寿を目指さないことは、
逆に非難されることになる。

それはどうしてか?

◆長生きを目指すのは間違っている、健康第一は間違っている

誰もが長生きや健康を望む世の中というのは、
どうも現実ではないように思われる。

むしろ、長生きは幸せをもたらさない。

健康は幸せをもたらさない。

それが現実なのではないか?

長生きを目指さない世の中にこそ
大きな希望があるし、
健康を目指さない人にこそ夢がある。

そういう一面もあると思う…

投稿者: book reviews

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