◆生きるためには分業が必要であり、相互の「信用」が必要になる!
アドラーにとって、働くことの意味はシンプルである。
仕事とは、地球という厳しい自然環境を生き抜いていくための生産手段である。
つまり、仕事とは「生存」に直結した課題である。
人間は「食うために働く」必要があるのである。
生き延びること、
食いつなぐことを考えたとき、
人間がなにかしらの労働に従事しなければならない。
ここで重要となるのは、
「仕事」を成立させている対人関係のあり方である。
自然界における人間は、
鋭い牙も、大空を飛ぶ翼も、頑丈な甲羅も持たない、
いわば身体的劣等性を抱えた存在である。
だからこそ人間は、集団生活を選び、外敵から身を守ってきた。
集団で狩りをして、農耕に従事し、食料を確保し、
身の安全を守りながら子どもを育てて生きてきた。
われわれ人間は、ただ群れをつくったのではない。
人間はここで「分業」という画期的な働き方を手に入れた。
分業とは、人類がその身体的劣等性を補償するために獲得した、
類まれなる生存戦略である。
群れをつくるだけであれば、
多くの動物たちがやっている。
しかし人間は、そこに高度な分業システムを組み込んだ上で群れをつくった。
むしろ、分業するために社会を形成したといってもよい。
仕事とは、単なる労働ではない。
他者とのつながりを前提とした「分業」なのである。
他者とのつながりを前提としているからこそ、
「仕事」は対人関係の課題である。
人間はなぜ働くのか?
生存するためである。
この厳しい自然を、生き抜くためである。
人間はなぜ社会を形成するのか?
働くためである。
分業するためである。
生きることと働くこと、
そして社会を築くことは不可分なのである。
経済学の立場から分業の意義を指摘する人は以前からいた。
しかし、心理学の分野で、
しかも対人関係のあり方として分業の意義を唱えたのは
アドラーがはじめてである。
これによって、人間にとって労働の意味、
そして社会の意味が明らかになったのである。
もしわれわれが、働かずともすべてを提供してくれる惑星に住んでいたのであれば、
おそらく怠惰であることが徳であり、勤勉であることは悪徳であろう。
ところが、実際の地球はそういう環境にない。
食料には限りがあり、住む場所も誰かが提供してくれるわけではない。
それではどうするのか?
働くのである。
しかも一人で働くのではなく、仲間たちとともに。
われわれは働き、協力し、貢献すべきである。
ここで大切なのは、
労働それ自体は「善」と規定しないことである。
道徳的な善悪にかかわらず、
われわれは働かざろうえないし、分業せざるをえない。
他者と関係を築かざるをえない。
要するに、人間は一人では生きていけないのである。
孤独に耐えられないとか、
話し相手がほしいとかいう以前に、
生存のレベルで生きていけない。
そして他者と「分業」するためには、
その人のことを信じなければならない。
疑っている相手とは、協力することができない。
人間には「信じない」という選択肢はない。
協力しないこと、分業しないことなどありえない。
その人が好きだから協力するのではなく、
否が応でも協力せざるとえない関係である。
生きるためには分業が必要であり、
分業するためには、相互の「信用」が必要である。
しかもそこには選択の余地がない。
われわれは一人では生きていくことはできず、
信用しない、という選択肢はありえない。
関係を築かざるをえないのである。
自然界のおける人間は、あまりに弱く
とても一人で生きていくことができない。
だからこそわれわれは群れをつくり、
「分業」という働き方を手に入れた。
分業とは、好悪を超えて「他者を信用することから」
はじまる。
われわれは分業しないと生きていけない。
他者と協力しないと生きていけない。
それは「他者を信用しないと生きていけない」
ということでもある。
それが分業の関係であり、
「仕事」の関係である。