この世に不可能はない―生命体の無限の力 by 政木 和三
政木和三 (まさき かずみ)
政木は兵庫県生まれで、
幼少は姫路の北、
神崎郡市川町瀬加の自然豊かな山間で育った。
昭和15年、
関西高等工業学校電気工学科を卒業し、
大阪帝国大学工学部に入学。
工学部では、通信学科はじめ、建築学科、
土木学科などすべての学科を履修し、応用物理、造船工学、航空学も学んだ。
のちに、通信工学科研究室に入り工学部工作センター長となった。
発明の能力に優れ、
発明品の数は1000件以上にのぼる(物的証拠のあるもので1000あまり、それ以外を含むと3000件近いという)。
発明した具体的なものには、
自動炊飯器、自動ドア、歯科用ドリル、魚群探知機などがある。
著者はスピリチュアルな体験、経験を数多くした。
発明の際の特定のインスピレーションもその一つである。
また彼は、「人々が幸せになる発明をしなさい」という啓示的信号を受けた。
この世の中には未知のエネルギーがあり、
それは人間の肉体の内側にも潜んでいて、
信じられないような力を発揮する源となっている。
発明家の著者が、
自らの体験をもとに、
可能性を開くキー「生命体」について語る。
目次
序章 「私」という人間
第1章 キーワードは「生命体」だ!
第2章 脳波を下げれば潜在力が現れる
第3章 生命体の声に耳を傾けよ
第4章 よみがえる古代の叡知
第5章 真実の生き方をせよ

MEMO
この世に不可能はない
◆意識して社会奉仕(ボランティア)をしようというのは、
最大の欲望である。
ボランティアは、
するものではなく、
自分の自然の行為がそのまま社会のために
役立つことである。
それが本当のボランティアというものである。
◆人のためになろう、
人に幸せを与えようと努力していると、
与えた分だけエネルギーが自分に返ってきて、
自分の人間性が向上できる。
自分の人間性を向上させること。
これがこの世に生きる
私たちの最高の幸せということになる。
◆病気は、
実は自分でつくっているのだといえる。
文字どおり「気が病んでいる」から
病気なのであって、
肉体が病気をつくるのではない。
自分の気が病んで病気になるのだ。
◆病気になったとき、
いっさいの欲望をなくし、
「病気になったお陰で、
初めて私は病気の人の辛さ苦しさがわかりました。
ありがとうございます」と、
感謝の気持ちで思えるようになると、
辛さも苦しさも消えて、
病気は自然に治っていく。
脳波が下がり、
生命体のエネルギーが出て、
肉体に変化が生じるからだ。
だから、
決して「どうしよう」と心配するのではなく、
ひたすら「ありがとうございます」と
感謝の気持ちをいだく。
そして、神仏に頼るのではなく、
何かを願うときは必ず、
「もう、そうなった」という過去完了形で
思うべきなのである。
要するに、過去完了形で思ったことを、
確実に着々と一所懸命にやっていくことが
大事なのである。
何事も楽しみながら、
一所懸命にやっていく。
そうすることで、
確実に事は達成されていく。
◆欲望を捨てるということは、
感謝の気持ちをいだくということに通じる。
本当の意味での感謝は
無欲の中からしか出てこない。
欲望があり、それが満たされないと、
人は自分を不幸だと思う。
だが、無欲になると、
心は常に満ち足りた状態に置かれ、
「自分ほど幸せな者はありません、
ありがとうございます」
という感謝の気持ちが
自然に湧いてくるようになる。
それでこそ脳波は下がっていくのである。
◆脳波がシータ波の状態というのは、
全く欲望のない状態のことである。
全く欲望のない状態になると、
人間には何事に対しても
感謝の気持ちが自然に湧いてきて、
誰でも「私ほど幸せな人間はいない」
という思いをいだくようになってくる。
そのときこそ、
人間は本当に幸福になれるのである。
つまり、欲望を捨てるということは、
感謝の気持ちをいだくということに通じる。
◆正と負、陰と陽の正反対の
2つに半分ずつ分かれている生命体がある。
こういう生命体をもっている人同士が結婚すると、
完全に一体となり、円満な夫婦になれる。
◆失敗を恐れてか、
くよくよ心配ばかりしている人がいるが、
こういう人は、
脳波が下がりにくいため、
生命体の声を正しく聞くことができない。
心配というのは、
マイナスのエネルギーをもっているからだ。
心配すると、心配したことは実現していまう。
それよりも「憂(うれ)える」気持ちをもつべきなのだ。
「憂える」というのは、
心を痛めるということで、
心配するということではない。
他人はどうでも、
自分に降りかかるかもしれない不幸や悲劇のもを
案じる心根を「心配」というのである。
それに対して、災害によって生じるであろう
大勢の人々の不幸に自ら先んじて心を痛めることが
「憂える」という意味だ。
◆かりに意思決定で迷うことがあったら、
欲望を捨て、脳波をシータ波にする
努力をしていかなければならない。
そのうえで意思決定をすれば、
すべてが正しい決断だなるだろう。
◆無欲になって、
一所懸命に自分のやるべきことをやっていれば、
自然と正しい判断もできるようになる。
そして、脳波がシータ波になったとき、
人間の体の中の生命体が肉体の前面に現れ、
眠っていた潜在能力を引き出す。
そして、発想力や創造力をはじめ、
さまざまな能力が発揮されるようになる。
◆目標を最高のものに置き、
一度思えば忘れてしまっても、
心の底にはしっかりと残っているものだ。
あとは自分がなすべきことだけを
確実にこなしていくことが大切である。
人間の生き方としては、
これが最も大事なことのように思われる。
◆経営者は目先の利益を追うな!
目的は収益を上げることであっても、
それだけを見つめて追いかけていたのでは、
欲望が前面に出て得意先は離れていく。
だが、自分のなすべきことだけを確実に実行していけば、
得意先に喜んでもらいながら、
自社の収益も同時に増加させ、
目的も達成できることができる。
◆イタドリの教え(無限小の力で無限大の時間をかける)
道路のアスファルトを破り、
イタドリの新芽が出てきた。
イタドリは私たちに
こう教えているかのように…
「私たちのような柔らかい無限小の力のものでも、
無限大の時間をかけて頑張れば、
アスファルトのような硬くて厚い層をも破り、
やがて地上に顔を出すこともできる」と。
イタドリの新芽のように、
無限小の力で無限大の時間をかけてじっくり行動すれば、
そのエネルギーもやがて無限大のものとなり、
この世に不可能はなくなる。
◆「一生懸命」から「一所懸命」へ
ゴルフ場で、
目標とするグリーンの旗を見つめ、
あそこまで何とか飛ばしてやろうと思うから、
力が入ってボールはとんでもない方向に飛んでいく。
だが、ゴルフ場が足もと1メートルなら、
飛ばそうと力む必要は全くない。
クラブヘットをボールに当てるだけで、
ボールは一直線に目標に向かって飛んでいく。
まさに足もとの一か所に、
それこそ、「一所懸命」になればいいだけだ。
「一生懸命」ではなく、「一所懸命」。
これこそが人生にとて大事なのだ。
◆欲望は捨てなさい。
ただ、到達しそうもないような大きな目標をもち、
そしてそれを忘れなさい。
そのうえで自分の足もとの一歩一歩を
確実に歩んでいく。
そうすれば自然と目標に近づいていく。
◆私たちは「一生懸命」
という言葉を好んでよく使う。
だが、欲望の実現を目指した「一生懸命」では、
せっかく頑張ってもあまり成果は望めない。
目標とする欲望を見つめて一生懸命になっている間は、
まず進歩はないと考えていい。
人間は誰でも、
人生に目標をもっている。
その目標は大きすぎるくらいでいい。
だが、その目標をいったん心におさめたら、
あとは一歩一歩、
自分の目前のなすべきことだけを
果たしていかなければならない。
◆無欲の大欲
人間には限りない欲望があるが、
この欲望をかなぐり捨て、
無欲になって自分のなすべきことを
コツコツとこなしていけば、
結局は大きな成果が得られるだろう。
◆「この世に不可能はない」というのは、
目先の欲望を捨て、
すべての我欲を忘れ、
人々の幸福のために尽くそうと努力するときに、
初めて私たちに訪れる状態をいうのであって、
わずかでも欲望があったのでは、
奇跡も起きないし、
この世は何事も不可能だらけになってしまう。
◆お経は唱えるものではなく、
お経に書かれていることを実行すること。
それこそが本当の仏の教えではないか。
◆人間は、自分の力によって、
自分の道を精一杯、
切り開いていかなければならない。
それが、神の存在を知ることのできた
人間のなすべき行為である。
神に頼らず、願わず、
無欲の気持ちで人々の幸福のために
努力を続けている人々にのみ、
神はその実現のために手を差し伸べてくれる。
自分で努力もしない人間に
神は決して手を差し伸べてはくれない。
神のような無欲な心で努力する者にのみ、
願わなくても神の力が注がれてくる。
人々の幸せのために努力を惜しまない者には、
神は必ず手を差しのべる。
◆宗教の根本はみなひとつ
神仏を心から信じ、
合掌しながら、
「ありがとうございます」と感謝する。
そうすることで、
心が鎮まり、脳波が下がり、
合掌することでさらに脳波が下がっていく。
神仏を信じ、感謝するというのは、
神仏に救いを求めることではない。
神仏は私たち自身の中にある。
そもそも宗教というものは、
仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、
必要な時代の必要な場所に、
同じ生命体によってもたらされたものであり、
根本の教えはみんな同じものであるはずだ。
◆信じるということは、
無心になることであり、
ある意味では無欲の常態と変わらない。
無欲になると、脳波がシータ波に下がって
肉体の意識が弱くなり、
生命体のエネルギーが前面に出てきて
肉体のコントロールをするようになる。
◆人間は、神を信じ、奇跡を信じ、
信じることに対して少しの疑いもない常態になったとき、
生命体のエネルギーが肉体を支配するようになり、
奇跡を生んでいく。
◆何事においても、
その根本の部分を学ぶことが大切である。
根本がわかれば、
いろいろな場面で応用がきく。
物事の根本は、
ただ頭で覚えようとするだけでは
本当に理解したことにはならない。
実地にいろいろやってみて初めてわかるものだ。
実験の必要性は、
まさにそこにある。
◆欲望を捨て去り、
脳波をシータ波に下げ、
肉体に宿る生命体のエネルギーを前面に出していけば、
人間は常態の1000倍も1万倍もの力を発揮できる。
◆恐竜は自らの発達しすぎた体によって絶滅した。
人類は、自らの頭脳が生み出した発達しすぎた物質によって
破滅していくのではないか…
◆修行することで人間性を向上させようという生命体は、
生命体全体の15%しかない。
残りの85%は、
自分さえよければいい、
自分さえ幸せに生きていられればいいという
悲しく小さな生命体である。
◆人間性を向上させ、
生命体のエネルギーを高めることによって、
私たちは人間の限りない能力を獲得し、
発揮していくことができる。
◆生命体は、人間の死によって肉体を離れていく。
肉体をなくした生命体は、
修行することも向上することもできない。
生命体が向上できるのは、
肉体を持っていきているわずかの間だけである。
◆人間の生きている間は、
いわば生命体の修行期間である。
その間、さしたる修行をしなければ、
その人間は第一生命体と第二生命体だけを宿して生涯を終えてしまう。
だが、人間性を高めるための修行をすれば、
何十、何百の生命体がその人間に宿っていく。
ここでいう修行とは、
他人に喜びを与えることであり、
社会のために尽くすことである。
◆人間の潜在意識は、
私たちが日常知覚できる表層の意識、
肉体の意識に覆われている。
潜在意識の中心部はまさに生命体の意識で占められているが、
表層意識に比較的近い部分の潜在意識は、
表層の意識に染まりやすく、
生命体の意識からかけ離れていく。
したがって、潜在意識のすべてが生命体の意識ということではない。
もし潜在意識を本当の潜在意識と程度の低い潜在意識とに分けられるなら、
生命体の思うこと、生命体の知っていること、
つまり生命体の意識こそが本当の潜在意識というべき。
私たちは、脳波が下がったときのみ本当の潜在意識、
すなわち生命体の意識に到達でき、
生命体の声を聞くことができる。
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◆脳波が下がると未来予知も可能になる
脳波をシータ波にすると、
人間には予知を能力も生まれる。
つまり、未来がわかるようになる。
◆アルファシータ
普通、人間の脳波をシータ波に下げるには、
禅僧のような特別の修行をするか、
腹式呼吸のトレーニングを続けるしかない。
それは至難のわざであり、
時間も数年間かかってしまう。
いくら修行しても一生下がらない人もいる。
脳波を下げるというのは
それほど難しいものである。
もっと、容易に脳波をさげるには
アルファシータを利用する手がある。
ただし、これにはあくまでも
欲望を完全に捨てるという前提がいる。
実はそれが大変なのだが、
ただし欲望さえ完全に捨てることができれば、
たいていの人の脳波は1週間ほどでシータ波に下がる。
そのとき本当にシータ波に下がったかどうかを調べるには、
スプーン曲げの原理を利用してもいい。
スプーンを1本、
引き出しの中に入れておくか、
棚の上にのせておき、
1週間に1回それを見る。
その間、一度でも脳波がシータ波に下がっていれば、
スプーンは曲がっているはず。
◆バイオリズム計
生年月日だけ合わせれば、
1年中の自分のバイオリズムが見られる。
スタミナのある日、
感情が安定する日、
頭がよく働く日、
結婚の相性率なども測定することができる。
◆神経波磁力線発生器
この装置を使うと、
人体の細胞の中の水の分子がマイナスイオンの状態になって、
細胞内に栄養分が吸収しやすくなる。
その結果、細胞が若返り、健康が回復する。
◆腹式呼吸(1分間3呼吸)
最初は、7秒間かけてゆっくり吸った息を、
7秒間下腹部にとどめ、
それを7秒間でゆっくりと吐き出す。
1分間3呼吸に慣れてきたら、
20秒間で息を吸い、
20秒間下腹にとどめ、
20秒間で吐き出す、
1分間1呼吸にチャレンジしてみる。
◆人間の脳は、
懸命に何かを覚えようとしたら、
かえって何も覚えられない。
一生懸命になると、
ストレスで脳波が上がり、
ベータ波になってしまう。
逆に、物事を覚えようという欲望を捨てると
脳波が下がり、
勝手に覚えてしまう。
◆生命体が肉体の前面に出てきて、
エネルギーを発揮するようになるには、
脳波をシータ波まで下げなければならない。
脳波をシータ波にするには、
欲望をまったくなくさなければならない。
脳波が下がり、
8ヘルツ以下になった状態がシータ波である。
この状態になると生命体的感覚になっていくが、
これは瞑想の極致に達したときの精神状態と同じといってよい。
さらに脳波が下がり、4ヘルツ以下のデルタ波になると、
完全な無意識状態になり、
仮死状態に近づいていく。
脳波がシータ波になったとき、
人間は全く無欲の状態になっている。
これは逆も真なりで、
全く無欲の状態になったとき、
人間の脳波はシータ波になっている。
つまり人間は、
脳波がシータ波になっていないと無欲の状態にはなれないし、
無欲の状態でないと脳波はシータ波にはなれない。
この状態になったときに、
初めて生命体のエネルギーが発生し、
とうてい無理だと思われるようなことでも
簡単にできてしまう。
◆生命体は人間の肉体とともにいつでも
レベルアップを目指している。
だから人間が生きている間は、
生命体の修行期間とも考えられる。
◆人間にとって、欲望を捨てることは非常に難しい。
だが、完全に無心になったときには
生命体の力が発揮され、
「奇跡」が起こる。
◆私たちは神に依存してみても始まらない。
もし神に願いたいことがあったら、
願って何とかしてもらおうという願望を捨て、
願いが成就した状態を無心に思うことである。
そうなったとき初めて、
生命体(※)が力を発揮する。
※生命体とは、別の言い方をすれば、
魂であり、私たちの中にある神もしくは守護神であり、
あるいは宇宙そのものである。
それはすべての人間の心の奥深くに潜んでいる。
◆物事の真実をとことん追求する姿勢を貫く!
◆欲望や雑念を捨て去ると、
脳波が下がり、
インスピレーションや創造力が生まれ、
思いもよらない力が発揮できる。
◆真理は自然の中にしかない
たとえば、10万馬力のエンジンを搭載した船は、
10万馬力のうち、実際に船が進むための使っている力は
1万馬力だけで、
残りの9万馬力は造波抵抗に使っている。
船が進むと波が立つ。
波をけたてて進む姿は美しくても、
この波を起こす力が船の抵抗になってしまう。
これを造波抵抗という。
そのために全体の9万馬力も消耗している。
人間が頭で考えつくものは、
せいぜいこの程度のものだ。
これに対して自然界はどうか。
たとえば、イルカは、
ものすごいスピードで泳ぐのに全く波が立たない。
調べてみると、
波が生じそうになるとイルカの口の周りの筋肉がキュッとくぼみ、
波を消してします。
自然は実によくできている。