◆なぜ、嫌いな仕事をしてはいけないのか?
分業の根源にあるのは
人間の「利己心」である。
たとえば、弓矢をつくる名人がいたとする。
彼のつくった弓矢を使えば、
命中率は格段に向上し、
殺傷能力も高くなる。
でも彼は、狩りの名人ではない。
足も遅くて、視力も弱くて、
せっかく立派な弓矢がありながら、
狩りがうまくいかない。
そこであるとき、彼は気づく。
「自分は弓矢づくりに専念しよう」と。
弓矢づくりだけに専念すれば、
1日のうちに何本何十本という弓矢を
つくることができる。
それを狩りの上手な仲間たちに
配ってあげれば、彼らはいままで以上に
たくさんの獲物を仕留めてくるはずである。
あとは、彼らが持ち帰った獲物をもらえばいい。
それがお互いにとって
利益の最大化となる選択なのである。
一緒に働くだけでなく、
それぞれ得意分野を受け持つ。
ここに、自分の強みを生かした仕事、
自分が大好きなことを仕事にする理由がある。
狩りの名人たちも、
精度の高い弓矢が手に入るのなら、
それに越したことはない。
自分は弓矢をつくらず、
狩りだけに集中する。
そして獲ってきた獲物を
みんなで山分けする。
こうして、
「集団で狩りをすること」から
もう一歩進んだ、
より高度な分業システムが完成する。
ここで大切なのは
「誰ひとりとして自分を犠牲にしていない」
ということである。
つまり、純粋な利己心の組み合わせが、
分業を成立させている。
利己心を追求した結果、
一定の経済秩序が生まれる。
これが「分業」である。
分業社会においては、
「利己」を極めると、
結果としての「利他」につながっていく。
自分の利益を優先する考えは、
「他者貢献」と矛盾しない。
まずは仕事の関係に踏み出す。
他者や社会と利害で結ばれる。
そうすれば、
利己心を追求した先に、
「他者貢献」がある。
分業という観点に立って考えるなら、
職業に「貴賎」はない。
すべての仕事は
「共同体の誰かがやらねばならないこと」であり、
われわれはそれを分担しているだけである。
どのような仕事も等価である。
人の価値は、
共同体において割り当てられる分業の役割を、
どのように果たすかによって決められる。
つまり、人間の価値は、
「どんな仕事に従事するか」
によって決まるのではない。
その仕事に
「どのような態度で取り組むか」
によって決まる。
優劣があるとすれば、
その仕事に取り組む態度だけである。
分業においては個々人の「能力」が重要視される。
たとえば企業の採用にあたっても、
能力の高さが判断基準になる。
これは間違いない。
しかし、分業をはじめてからの人物評価、
また関係のあり方については、
能力だけで判断されるものではない。
むしろ「この人と一緒に働きたいか?」
が大切になってくる。
そうでないと、
互いに助け合うことは難しくなる。
そうした
「この人と一緒に働きたいか?」
「この人が困ったとき、助けたいか?」
を決める最大の要因は、
その人の誠実さであり、
仕事に取り組む態度である。
われわれの共同体は、
「ありとあらゆる仕事」がそこに揃い、
それぞれの仕事に従事する人がいることが大切である。
その多様性こそが、豊かさである。
人間はそれぞれ個性を持っている。
そして、個々人が自分の個性(強み)を
生かした仕事を分業するのがもっとも効率がよい。
もしも価値のない仕事であれば、
誰からも必要とされず、
やがて淘汰される。
淘汰されずに生き残っているということは、
何かしらの価値を有しているということである。