誰にもわかるハイデガー: 文学部唯野教授・最終講義 by 筒井康隆
目次
第一講
1 なぜハイデガーか?
2 「現存在」ってどんな存在?
3 実存とは人間の可能性のこと
第二講
4 死を忘れるための空談(おしゃべり)
5 「時間」とは何か?
6 現代に生きるハイデガー
ハイデガーの基本用語

MEMO
誰にもわかるハイデガー
◆自分は、つまり実在しているこの自分は、
1回しか生きられない。
これを1回性という。
そしていずれ死ぬんだというのを有限性という。
限りがある。
それを自分の身に徹してみる。
そのために当然、
では自分は今何をすべきか。
自分には今何ができるか。
そういったことに、
これらは向かわせてくれる。
◆果物というものは花が落ちてだんだん大きくなってきて、
黄色くなったり赤くなったりして熟してくる。
熟したときが完熟でもって、
それで完成する。
ところが人間には
そういう完成というものがない。
常に未了なのだ。
まだ終わっていない。
いつまでも可能性をもっている。
でも、いつかは死ななければならないけど、
そのときでもまだ未了なのだ。
人間はどんなに功成り名を遂げて
お金持ちになって、
そして死んでも、
それでその人が完成したわけじゃない。
まだ可能性がというのが残っているから、
絶対に完成ということはない。
だから死ぬことをハイデガーは
最極限の未了と言っている
◆世人というのは例外を許さない。
個性があって他の人とちょっと違ったり、
あるいは独創的であったりすると、
そういった存在を許さない。
そういう世人がどういうかといえば、
「私達と同じような考え方をしなさい。
私達と同じような服装をして楽しくやりましょう。
そうしたら、あなたは死ぬ存在だということを
忘れることができますよ。
そんなことは考えなくていいんです」
と。
◆非本来性とは、
できるだけ死から目をそむけるようにする生き方。
自分はまだまだ死なないとか、
自分だけは死なないとか、
あるいはそれを忘れるために気晴らしをするとか…
そしていろんな人と付き合って、
世の中の人と調子を合わせて面白おかしくやっていく
というのが非本来性的な生き方である。
そして我を忘れて仕事に夢中になるというのも、
非本来性的な生き方である。
◆本来性というのは死を見つめる、
自分が生きているのに、
いずれ死ななければならないのに
生きているという苦しみ。
その苦しみとか悲しさとか
そういうものを生きている上で、
どれほど生き方が苦悩や悲哀に満ちていても
それを引き受けていくという生き方である。
◆我々はだいたい普通、
たとえば男性の平均寿命は70何歳で、
女性が80何歳、
だからだいたい自分もそれくらいまで生きるだろうと、
そういうふうに思っている。
ところが死というのは
そうじゃない。
80何歳のお婆さんがさらに数十年生きるかもしれない。
20歳になったばかりの若い人が明日死ぬかもしれない。
いつやってくるかわからないから死なのだ。
いつやってくるかわからない死を了解しようとして、
人間は苦しんでいる。
だから、
そういった死ぬという自分の存在を
自分で生き受けて生きていく、
その実在という存在のしかた…
それが現存在である。
◆現存在、つまり人間というのは、
生まれてすぐに自然を自然のものとして見るわけではない。
すべて道具として見る。
◆ハイデガーは、
現存在というのは自分を気遣う存在だと言っている。
人間は自分を気遣う。
何よりも自分を気遣う。
それはなぜかというと、
つまり死ぬからである。
自分が死ぬと知っているから
自分をいちばん気遣うのだ。
◆現存在とはどういう存在かというと、
死ぬ存在である。
必ず死ぬ、人間は。
自分が死ぬ存在であるということを引き受けて、
自分でよくわかっていて、
それでなお生き続けている。