自然農法 わら一本の革命 by 福岡 正信
福岡 正信
1913年、愛媛県伊予市大平生まれ。
1933年、岐阜高農農学部卒。
1934年、横浜税関植物検査課勤務。
1937年、一時帰農。
1939年、高知県農業試験場勤務を経て、1947年、帰農。
以来、自然農法一筋に生きる。
1988年インドのタゴール国際大学学長のラジブ・ガンジー元首相から最高名誉学位を授与。
同年アジアのノーベル賞と称されるフィリピンのマグサイサイ賞「市民による公共奉仕」部門賞受賞…
耕さず、草もとらず、肥料もやらず、しかも多収穫!
“現代の老子”が語る無の哲学と実践…
目次
第1章 自然とは何か―無こそすべてだ
第2章 誰にもやれる楽しい農法―世界が注目する日本の自然農法
第3章 汚染時代への回答―この道しかない
第4章 緑の哲学―科学文明への挑戦
第5章 病める現代人の食―自然食の原点
追章 “わら一本”アメリカの旅―アメリカの自然と農業

MEMO
わら一本の革命
◆「自分の年は、いま百歳、2百歳」
と思いこむことにし、
元気な内に早く死ねるようにと、
心がける。
そのためには、
何も約束ごとをせず、
昨日を忘れ、
明日を思わず、
日々の仕事に徹して、
我が足跡を少しでも残さないことだ。
◆バカな動物は、
バカなことを知らないからバカをしない。
利口な人間は、
バカバカしいと知りながら
バカをする。
◆食糧がどうして生産されて
どうなっているか。
どういう機構で値段がつけられているかも知らない。
アメリカのことも知らない。
日本の農民のことも知らない。
消費者は、
安くてうまいものが入ってくれば、
それでいいと思っている。
誰もが、安いもので、
うまいものを食わしてもらえばそれでいい、
アメリカの果物であろうが、
日本の果物であろうが、
アメリカの米であろうが日本の米であろうが、
いいと思っている。
それがとんでもない間違いだということに
気がついていない。
本当の豊かさとは何か、
どこで何を作るべきかということが
わかっていない。
食物生産の原点は
身土不二、自給自足である。
国際分業論がとんでもない間違いであることは、
単一専業大型生産流通が、
米国内の食生活貧困の
原因になっている状況をみればよくわかる。
今アメリカは、
高度の文明を誇り、
その維持と繁栄のため、
武器と食糧、
硬軟2つの戦略兵器を強力に推し進めることに、
やっきになっているようにみえる。
◆アメリカの農民が日本の農民以上の
食生活をしていて、
豊かな、楽しい生活をしているんだったら、
よその国へ出すことはない。
よその国へ食糧を売らなきゃいけないということは、
実を言うと、貧しいからだ。
◆人生にはこういう目標がある、
どういうのが生きがいであるなんて言うけれど、
人間には目標なんかもともとありはしない。
何をしなければいけないということも
一つもありはしなかった。
人間が勝手に設定しただけにしかすぎない。
豊かになる、
幸福になるという錯覚をおこして、
仮の目的をこしらえただけにすぎない。
何もしなかったら、
いちばんつまらん、
生きがいのない生活かというと、
どっこいそうじゃない。
反対だ。
何も目標がない。
のんびり昼寝しておって、
いちばん愉快な世界はそこに展開されてくる。
◆東洋の思想では、
人間は自然の一員にしかすぎない。
イヌやネコやブタ、
ミミズもモグラも人間と同列である。
ただししいて言えば、
人間は哺乳動物の一種類であって、
あとから進化して生まれてきた動物にしかすぎない。
なんのことはない。
石や花と人間とどこが違うのか。
自然の眼からみたら、
なんの区別ももない。
同列だと思う…
ところがアメリカ人は
「我思う、故に我あり」
からスタートしているから、
すべての自然も人間のために存在する。
人間がそれを知ることもできれば、
利用することもできる。
それを活用することも、
人間のためであれば差しつかえない。
人間のためにすべてを犠牲にしても
差しつかえない、
という観念にまで行く。
そこが東洋人と西洋人の
いちばん大きな違いである。
◆人間は頭で考え、
口で食をとってきたが、
頭で飯を食べるな、
心頭を減却せよということだ。
◆主食が何でなければならぬ、
副食はこれに限ると
固定化することが無理なことで、
自然の実相からかれ離れる結果になる。
◆病気は、
人間が自然から離れた時に始まり、
その遠離の程度に応じて重態になる。
だから病人は自然に還れば、
病気も治るのは当然である。
自然離反が激しくなるに従って
病人は激増し、
自然復帰の願望も強くなる。
だが自然復帰しようにも、
その自然が何か、
自然体が何かわからないから困る。
◆4つの食事法
- 外界の条件に左右され、邪欲、嗜好に合わせた放漫な食事で、いわば頭の先で食べる観念食である。いわば放縦食(虚食)である。
- 生物的判断から、栄養食品をとって肉体の生命を維持し、嗜好の拡大につれて、遠心的な進展を続ける一般人の肉体本位の栄養食である。いわば物資的な科学食(体食)である。
- 西洋の科学を超え、東洋の哲理を中心として、食物を制限し、求心的な収斂をめざす自然人の精神的な理法の食(理食)である。一般に自然食といわれるものが、この中に入る。
- 一切の人智を捨てた、無分別の天意に従った食事法である。これが理想の自然食で、無分別食と名付けておく。人はまず、万病の素となる虚食を離れ、生物的生命維持に過ぎない体食に満足せず、理食を実践してなお理食を超え、真人となって理想の自然食をとることを究極の目標とせねばならない。
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◆西欧の栄養学は
一見科学的で綿密な計算の上に
成り立っているから、
いつどこで適用しても
何の間違いもおかさないと
かんがえられ易い。
が、
根本的には大過ちをおかす危険がある。
- 西洋の栄養食には人間としての目標がない
人生の終局目標を失った盲目人間に献立表を見る思いがする。 - 人間が精神的動物であることが忘れられている
人間を単に生物的、機械的、生理的対象として捉えるただけでは不完全である。サルやネズミを材料にして組み立てられた栄養学を人間に適用させようとするのが無理。人間の食物は、人間の喜怒哀楽と直接間接に結びついているものであり、感情をぬきにした食事は意味がない。 - 西洋の栄養学は部分的、局時的把握に終始していて、とうてい全体的把握とはなりえない
部分的な材料を、どんなに豊富にとり揃えても完全食に近づくものではない。一物の中に万物があるが、万物を集積しても一物は生まれない。西洋の科学は根本的にこの東洋の哲理が理解できないため誤りを犯していくのである。
◆栄養
美味しいという味覚と、
栄養が分離しているということが、
そもそもおかしいので、
栄養になる、
人間の身体によいものは自らから人間の
食欲をそそるはずであり、
美味しい食物となるはずである。
美味、滋味、妙味は
一体のものでなければならない。
◆四季の色、食物の色(陰陽表)
陰陽無双原理にもとづき、
四季の色に合った食べ物を、
大雑把に配列したものであるが、
四季を循環し変転する一物とみて円の中に収めた。
夏は暑くて陽の季節、
冬は寒くて陰の季節。
光で表せば、
夏は赤・橙、春は茶・黃、秋は緑・青、冬は蘭・紫とされる。
陽の夏には陰(緑・紫)の食を、
陰の冬には陽(赤・黄)の食物をとるというように、
万事陰陽のバランス、
調和のとれた配色の食事をすればよい。
◆昔、犬崎峠に億万長者がいた。
この人は馬の背に木炭をつんで、
峠から郡中港までの一厘の道を運んでいただけである。
なぜ一代で長者になれたのか?
帰りの道で、
道端に捨てられた牛馬の古わらじやフンを
拾って帰って畑に入れただけだという。
わら一本を大事にし、
手ぶらで歩かない。
むだ足を踏まないという
モットーが彼を長者にした。