バカの壁 by 養老 孟司
養老 孟司(ようろう たけし)
1937(昭和12)年鎌倉生れ。解剖学者。
東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。
心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。
’89(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。
新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した…
人間というものは、
結局自分の脳に入ることしか理解できない…
これが「バカの壁」である。
目次
まえがき
第一章 「バカの壁」とは何か
「話せばわかる」は大嘘/ 「わかっている」という怖さ/ 知識と常識は違う/ 現実とは
何か/ NHKは神か/ 科学の怪しさ/ 科学には反証が必要/ 確実なこととは何か/
第二章 脳の中の係数
脳の中の入出力/ 脳内の一次方程式/ 虫と百円玉/ 無限大は原理主義/ 感情の係数
/ 適応性は係数次第/
第三章 「個性を伸ばせ」という欺瞞
共通了解と強制了解/ 個性ゆたかな精神病患者/ マニュアル人間/ 「個性」を発揮す
ると/ 松井、イチロー、中田/
第四章 万物流転、情報不変
私は私、ではない/ 自己の情報化/ 『平家物語』と『方丈記』/ 「君子豹変」は悪口
か/ 「知る」と「死ぬ」/ 「朝に道を聞かば……」/ 武士に二言はない/ ケニアの歌
/ 共通意識のタイムラグ/ 個性より大切なもの/ 意識と言葉/ 脳内の「リンゴ活動」
/ theとaの違い/ 日本語の定冠詞/ 神を考えるとき/ 脳内の自給自足/ 偶像
の誕生/ 「超人」の誕生/ 現代人プラスα/
第五章 無意識・身体・共同体
「身体」を忘れた日本人/ オウム真理教の身体/ 軍隊と身体/ 身体との付き合い方/
身体と学習/ 文武両道/ 大人は不健康/ 脳の中の身体/ クビを切る/ 共同体の崩壊
/ 機能主義と共同体/ 亡国の共同体/ 理想の共同体/ 人生の意味/ 苦痛の意味/ 忘
れられた無意識/ 無意識の発見/ 熟睡する学生/ 三分の一は無意識/ 左右バラバラ/
「あべこべ」のツケ/
第六章 バカの脳
賢い脳、バカな脳/ 記憶の達人/ 脳のモデル/ ニューラル・ネット/ 意外に鈍い脳の
神経/ 方向判断の仕組み/ 暗算の仕組み/ イチローの秘密/ ピカソの秘密/ 脳の操
作/ キレる脳/ 衝動殺人犯と連続殺人/ 犯犯罪者の脳を調べよ/ オタクの脳/
第七章 教育の怪しさ
インチキ自然教育/ でもしか先生/ 「退学」の本当の意味/ 俺を見習え/ 東大のバ
カ学生/ 死体はなぜ隠される/ 身体を動かせ/ 育てにくい子供/ 赤ん坊の脳調査/
第八章 一元論を超えて
合理化の末路/ カーストはワークシェアリング/ オバサンは元気/ 欲をどう抑制する
のか/ 欲望としての兵器/ 経済の欲/ 実の経済/ 虚の経済を切り捨てよ/ 神より人
間/ 百姓の強さ/ カトリックとプロテスタント/ 人生は家康型人間の常識/

▶Amazonに移動する…
MEMO
バカの壁
◆社会的に頭がいいというのは、
多くの場合、結局、
バランスが取れていて、
社会的適応が色々な局面でできる、
ということ。
逆に、
何かひとつのことに秀でている
天才が社会的には迷惑な人である、
というのは珍しいことではない。
◆江戸時代には、
脳中心の都市社会という点では
非常に現在に似ている。
江戸時代には、
陽明学が主流となった。
陽明学というのは何かといえば、
「知行合一」。
すなわち、
知ることと行うこととが一致すべきだ、
という考え方である。
しかしこれは、
「知ったことが出力されないと意味が無い」。
◆考えるとは
人間の身体は、
動かさないと退化するシステムになっている。
筋肉であれ、
胃袋であれ、
何であれ、
使われなかったら休むというふうになって、
どんどん退化していく。
当然、脳も同じだ。
そうすると、
これだけ巨大になった脳を
維持するためには、
無駄に動かすことが必要だ。
とはいえ、
常に外部からの刺激を
待ちつづけても、
そうそう脳が反応できる入力ばかりではない。
そこで刺激を自給自足するようになった。
これを我々は「考える」と言っている。
◆英語の「the」と「a」の違い
「机の上にリンゴがあります」
と言うときに、英語では
「There is an apple on the desk」
と言う。
この時の認識の流れは次のようになる。
「机の上に何かあって、
それが視覚情報として脳に入ってきた時に、
脳味噌で言語活動が起こった、
リンゴ活動が起きた」
そのときは「an apple」である。
この時点では、
あくまでも、
視覚情報として入ってきた
「赤くて丸い物」に対して脳の中で
「リンゴ活動」が発生した結果としての
「リンゴ」に過ぎない。
不定冠詞がつくときは
脳内の過程に過ぎない。
次に、その外界のリンゴを
本当に手に掴んでかじってみる。
もしかするとそれは実際には、
蝋細工かもしれない。
ともかく、
この時点でようやく実体としての
リンゴになる。
それが英語では
「the apple」になる。
実体となったから定冠詞がつく。
大きな概念としてのリンゴではなく、
ある特定の私が手にしたリンゴになった。
外界のリンゴは
それぞれ別々な特定のリンゴということだ。
外の世界のリンゴは、
それぞれ特定のリンゴ以外あり得ない。
ところが、
頭の中のリンゴは、
プラトンの言うイデアとしてのリンゴである。
意識は一応全部同じだと見なす。
しかし、
そういう頭の中のリンゴというのは不定である。
色も、形も、大きさも、
何も決まっていない。
それは「an apple」になる。
◆「おかしいじゃないか。
リンゴはどれを見たって全部違う。
なのに、
どれを見たって全部違うリンゴを
同じリンゴと言っている以上、
そこにはすべてのリンゴを包括する
ものがなきゃいけない」
この包括する概念をプラトンは
「イデア」と定義した。
◆個性より大切なもの
若い人には個性的であれなんてふうに言わないで、
人の気持ちが分かるようになれということが大事。
みんなと画一化することを気にしなくてもいい。
「あんたと隣の人と間違えるやつ、
だれもいないよ」と言ってあげればいい。
「自分の個性は何だろう」なんて、
何を無駄な心配してるんだと、
若い人に言ってやるべき。
それより、
親の気持ちがわからない、
友達の気持ちがわからない、
そういうことのほうが、
日常的にはより重要な問題だ。
他人のことがわからなくて、
生きられるわけがない。
◆知るというのは…
「知るということは
根本的にはガンの告知だ」
ガンになって、
治療法がなくて、
あと半年の命だと言われることがある。
そうしたら、
咲いている桜が違って見える。
桜が違って見えた段階で、
去年までどういう思いで
桜を見ていたか考えてみる。
多分、
思い出せない。
では、
桜が変わったのか。
そうではない。
それは自分が
変わったということに過ぎない。
知るというのは
そういうことだ。
知るということは、
自分がガラッと変わること。
したがって、
世界がまったく変わってしまう。
見え方が変わってしまう。
それが昨日までと
殆ど同じ世界でも。
ガンの告知で桜が
違って見えるということは、
自分が違う人になってしまった、
ということだ。
去年まで自分が桜をどう思っていたか。
それが思い出せない。
つまり、
死んで生まれ変わっている。
絶えず過去の自分というのは消されて、
新しいものが生まれてきている。
◆「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」
という文から、
どういうことを読み取るべきか。
鐘の音は物理的に考えれば、
いつも同じように響く。
しかし、
それが何故、
その時々で違って聞こえるのか。
それは、
人間がひたすら
変わっているからである。
聞くほうの気分が違えば、
鐘の音が違って聞こえる。
◆流転しないものを情報と呼び、
昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。
真理は動かない、
不変だ、
と思っていた。
実はそうではなく、
不変なのは情報。
人間は流転する、
ということを意識しなければならない。
◆脳は社会生活を普通に営むために、
「個性」ではなく、
「共通性」を追求する。
これと同様に、
「自己同一性」を追求するという作業が、
私たちそれぞれの脳の中でも
毎日行われている。
それが、
「私は私」と
思い込むこと。
こうしないと、
毎朝毎朝別人になっていては
誰も社会生活を営めない。
では、逆に流転しにあものは何か?
「情報」である。
永遠に残ってしまう言葉を
情報と呼ぶ。
情報は絶対変わらない。
◆「個性」は脳ではなく
身体に宿っている、
というのは当然のこと…
それが現在では
まったく逆転して受け止められている。
似た勘違いが、
「情報」についての
受け止め方でも見られる。
◆「個性」なんていうのは
初めから与えられているものであって、
それ以上のものでもなければ、
それ以下のものでもない。
若い人への教育現場において、
おまえの個性を伸ばせなんて
バカなことは言わないほうがいい。
それよりも親の気持ちが分かるか、
友達の気持ちが分かるか、
ホームレスの気持ちが分かるか
というふうに話を持っていくほうが、
余程まともな教育ではないか。
◆イタズラ小僧と父親、
イスラム原理主義と米国、
若者と老人は、
なぜ互いに話が通じないのか。
そこに「バカの壁」が
立ちはだかっているからである。
いつの間にか私たちは
様々な「壁」に囲まれている。
それを知ることで
気が楽になる。
世界の見方が分かってくる。