知の体力

知の体力 by 永田 和宏

永田 和宏

1947(昭和22)年滋賀県生まれ。
細胞生物学者。
京都大学名誉教授。
京都産業大学タンパク質動態研究所所長。
歌人として宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者もつとめる。
紫綬褒章受章、ハンス・ノイラート科学賞受賞…

自力で生きぬくための本物の「知」の鍛錬法…

目次

◆I部 知の体力とは何か

1 答えがないことを前提とせよ
大学を高校から切りはなす/ 正解は一つなのか/ 答えのない問題/ 定石では太刀打
ちできない/どのように自分で考えられるか

2 質問からすべては始まる
私が大爆発するとき/ プレゼンの心構え/ 以心伝心の功罪/ 能動的に聞く/ 先生
だって嘘を言う/ ヒトの全細胞数は60兆個ではなかった/ 授業に教科書はいらない

3 想定外を乗り切る「知の体力」を
過剰なプレスリリース/ 何のために勉強するのか/ 学習から学問へ/ 最後の教育機
関としての大学/ 想定外に向き合う知力/ 「わかっていないこと」を教えたい

4 なぜ読書は必要なのか
ちっぽけな私は実は凄い奴なのだ/ 「何も知らない〈私〉」を知ること/ 〈他者〉の
発見/ 生命は自然に生まれる?/ 科学的な思考法の基本/ パスツールの「白鳥の首
フラスコ」

5 活用されてこその知である
しまい込まれた知識/ コラーゲンを飲む/ アウトプットへの訓練/ 知のスペクトル

6 〈私〉は世界とつながっている
永田流、短期派遣システム/ 英語嫌い/ 無用のへりくだり/ 学んでから始めるか、
始めつつ学ぶか/ ここだけが世界ではない

◆II部 師弟関係はどう結ぶものなのか

1 落ちこぼれ体験も大切だ
大学の教師が親切になった/ 三十苦に遭う

2 多様性にこそ価値がある
アクティブラーニング/ 教室じゅうを歩き回る/ とにかく聞いていく/ 「いい先生
ばかり」の胡散臭さ

3 先生にあこがれる
岡潔の残したエピソード/ 研究への情熱が学生に感染する/ 「パチンコ必勝法を教え
たるで」/ 授業は商品か/ 「何を教えるか」よりも「誰が教えるか」/ 先生で志
望する大学を択べるか/ 名著の値段

4 大学に質を求めるな
大学の品質保証/ 企業・社会の求める人材とは?/ 総理の言う「職業教育」/ 「ら
しく」の蔓延/ 「らしく」は同調を強要するミームだ/ 違っているということから
5 親が子の自立を妨げる
大学から親を駆逐しよう/ 卒業式で親も卒業/ 子でなく親の問題/ 繰り返される失
敗のなかにこそ

6 価値観の違いを大切に
「ヤバイ」だけではヤバクない?/ 特殊な悲しみ/ 予測変換機能 / ヘンな三人組

7 自分で自分を評価しない
妬みのなかの敵意/ シンデレラの起こした変化/ 「私などとてもとても」/ 自分を
位置づけない/ ぼっち席/ 本来ひとりでいるもの

◆III部 思考の足場をどう作るか

1 二足のわらじには意味がある
身の縮んだ人生/ 研究室の御法度/ 元気をなくしたわが子

2 みんなが右を向いていたら、一度は左を向いてみる
負のフィードバック制御 / われわれは弱い / 「それらしい」言葉の嘘くささ /
言葉は究極のデジタル / コミュニケーションは、アナログのデジタル化

3 メールで十分と思うな
300通のラブレター/ メールは思いを伝えるか/ 言葉にできない/ 待つという時
間 / 思考の断片化

4 ひたすら聞きつづける
受ける側の覚悟 / 妻が望んでいたこと/ 河合隼雄の極意/ 聞いてくれる存在 /
「それは無理」が摘み取るもの

5 「輝いている自分」に出会うには
特別の〈他者〉/ 伴侶となるべき存在

あとがき

知の体力

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MEMO

知の体力

◆子どもや若者には失敗経験こそが必要なのである。

挫折も経験したほうがいい。

なによりまずいのは、
まだやりもしないで、
それが無駄だと言われて
やる気をなくしてしまうことである。

実行しないであきらめるよりは、
実行して失敗を経験するほうが、
はるかに有意義な時間となるはずである。

◆相談事というのは、
たいていは「聞いてもらうだけでいい」のである。

相談するときには、
相談する方にもだいたい答えは出ている
場合のほうがおおい気がする。

わかっていてそれに踏み込めない、
踏み出すために誰かにちょっと背中を押して欲しい。

あるいは、
自分が一歩を出すために、
整理し自分を納得させるために、
誰かに聞いて欲しいのである。

◆みんなが正しいと言い始めたら、
一回はそれを疑ってみること。

一度だけでいいから左を見てみること。

たいていは自分の考えや判断が間違っていることのほうが多い。

一度はみんなが向こうとしている方向とは反対を見てみる、
それが習慣、習性となるまで、
意識しておきたい。

◆基本的に生命は、
保守的である。

できるだけ「変わらない」
という戦略を優先させることによって、
自己の同一性を確保している。

しかし変わらなければ、
自己の子孫を残すこと、
すなわち自己拡大(自己複製)が達成できない。

「変わりつつ、変わらない」。

この本質的なジレンマを、
巧妙なメカニズムで克服しつつなされるのが、
細胞を基本単位とした生命活動なのである。

◆1日のうち、
ひとりでる時間をどこかで確保すること、
進んで孤独になる時間を確保すること。

そんな誰からの干渉もない場所でのみ
確認できる自分というものがある。

人間は本来はひとりでいるものであり、
たまに友達と一緒になるというのが基本なのだ。

常に誰かと一緒に行動していなければ落ち着かないというのは、
自分という存在に正面から向き合うのを避けていることでもある。

ひとりで自分と向き合うのが怖い。

だから、いつも友達が横にいて欲しい。

孤独を知ることが自立ということであり、
孤独のなかでしか自分が自分であることの確認はできないものなのだ
ということは確認しておいてほしい。

孤独を恐れてはならない。

◆評価なんて知ったことか、
やりたい奴にはやらせておけ、
くらいの気概を持って、
自分を敢えて位置づけないこと。

それは確かに不安ではあろうが、
安易な自己規定からは決して開くことのできない、
未来の可能性を押し開くものである。

◆第三者による評価なら、
それは他人が勝手にやっているのだから、
俺には関係ないよと突き放しておくこともできる。

だが自己評価となると、
自分だ下した評価なのだから、
どうしてもそれに縛られざるを得なくなる。

そんな余計な縛りは何の意味もない。

◆評価というものは、
それが良ければ自信をもってさらに励み、
悪ければ、それを分析して克服できるように対策を練る、
そういう使われ方をした場合のみ意味を持つ。

ところが、
評価そのものが自己目的化してしまい、
評価を生かすのではなく、
それに縛られてしまうという場合のほうが
圧倒的に多いのが現実である。

まして、その現在の評価が将来の自分を決定づけてしまうような、
評価への依存は本末転倒、まったく意味を持たない。

◆評価というものは、
原理的に、
みんな同じ物差しをあてて判断できる項目についてしか、
測ることができない。

評価できる能力というのは、
誰が採点しても同じ結果が出てくるような対象に対してだけ、
それを量ることができるのであり、
それがその人間の評価の全体像では決してない。

むしろ、試験などによる評価は、
その人間のもっとも大切な部分については、
もともと歯が立たないものなのである。

◆妬みも羨(うらやみ)みも,
ともに誰かとの比較から生じる感情であるが、
その比較による差が「微差」である場合にのみ、
なぜか羨ましい、妬ましい思いが湧く。

自分との差が大きい相手にこそ、
そういう感情が起こってよさそうなのに、
実際にはほとんど「差」がない相手に対してこそ、
妬みが生じる。

不思議だが、
悲しい人間の性(さが)である。

◆「妬む」という場合、
妬む対象は、成績が良かったり、
異性にモテたり、金回りがよかったりと
いろんなケースがありそうだが、
はっきりしているのは、
それが自分とはかけ離れた存在ではないということだ。

圧倒的に優れた人、
はるかな有名人、
あるいは比較にならないくらいよくできる人や
億万長者などに対しては、
実は妬みの感情は湧かないものである。

◆失敗体験こそが、
次に同様の問題に直面したときに
成功へと導く必須の布石なのである。

失敗を多く経験してきた人間こそ、
いぞというときに肝も据わり、
冷静な判断を行うことができる。

◆実は子どもがひ弱でも、
親離れができないのでもなく、
親の子離れができないことこそが、
最大の問題なのかもしれない。

◆親が子の自立を妨げる

自立した個人を作るためには
親は子を切ってほしい。

本当の親子関係を作るなかで、
個人の自立がある。

個人の自立なくして、
「独創力」や常識を疑う力は
なかなか生まれない。
—————————
◆ウンチの話し…

ウンチの固形成分の3分の1は、
食べ物の残りかすである。

ではあとの3分の2は何か?

その3分の1は、
小腸などの粘膜細胞の死んだもの。

小腸の一番外側を覆っている上皮細胞、
粘膜細胞の寿命は2~3日である。

短期間働くだけ働いて、
すぐに死んでしまう上皮細胞の死骸である。

そして最後の3分の1が、
じつはあなたの腸のなかにいるバクテリアの死骸である。

◆何か人生の生き方の選択を迫られたとき、
あるいはそれほど重大事でなくとも、
自分の生活にかかわる、
あるいは研究にかかわる選択をする機会が訪れたとき、
「安全なほうをとるか、おもしろいほうをとるか」、
どちらを優先するかは、
その人間の生き方にとって、
きわめて大きな意味を持つ。

2つを選択する必要が出てきたときは、
とりあえずは「おもしろいほう」から選ぶ。

おもしろいほうから選べば、
たいていはうまく行かなくても、
別の選択を迫られることになるほうが多い。

しかし、それで失敗しても終わりではない。

たいていの場合は、
選択の変更がやむなしとなったところで、
遅すぎるということはない。

しかし、
最初から安全なほうを選んだ場合には、
それで何かが変わるという可能性はきわめて低い。

常に安全なほう、安全なほうと選び続けていく人生は、
どんどんその人間の人生を小さなものにしていく。

◆大学において「落ちこぼれる」
という体験をすることは、
逆にとても大切なことである。

一度も挫折した体験を持たずに、
めでたく卒業して、
みんな社会に出ていく。

これって、怖くないか?

社会人になってから、
初めて落ちこぼれを体験して、
ある意味あともどりの効かない状態で、
追い詰められるというのは、
精神的にもきわめて危険だ。

落ちこぼれ体験は大学時代にあった方がいい。

◆十分な知識を身につけてから研究(※)を始めるのではなく、
研究しながら、その都度必要になった知識を仕入れていく、
これがもっとも大切な知識への接近の仕方である。

※「研究」を「起業」とか各自の状況に合わせて読み替えてみる。

◆必要な知識というものは、
現場で必要になったときに、
調べて仕入れるのがもっとも身につくもので、
ただ漫然と机に向かって講義を聞いているだけでは、
実践の場におけるほんとうに必要な知識は自分のものにならない。

◆いざというとき、
世界に対峙する語彙あるいは情報を持っているかどうかは、
自らへの信頼感に直結し、
世界への対応の仕方を決める。

積極的に立ち向かえるか、
消極的に尻込みするかを決める要素になる。

◆学校で習った知識は、
現実とは違った領域に仕舞い込まれている。

学校での勉強は、
あくまで試験のため、
受験のためというバイアスがかかっているために、
現実の生活の場で思い出されることもなく眠っている。

例:

情報1:コラーゲンはタンパク質である。

情報2:タンパク質はアミノ酸の繋がったヒモ状のものが折りたたまれて、3次元的な構造を持ったものである。

情報3:タンパク質を食べると、胃や腸でアミノ酸やペプチドにまで分解され、小腸から吸収されたアミノ酸は、タンパク質を作る原料として新たなタンパク質に取り込まれる。

情報4:老化によってコラーゲンの合成量が減り、皮膚の下層にあるコラーゲンの量が減少することによって、皮膚の弛みや皺の原因になる。

情報1~4から、
コラーゲンを食べたり、飲んだりすることにより
皮膚の弛みや皺が改善できるか?

◆引き出されることのない情報は、
果たして知識と言えるだろうか。

インプットされた情報は、
現実の場面で引き出され、
活用されてはじめて意味を持つ。

しまわれたままの情報は、
価値としてはゼロである。

その活用とは、
必ず現実の場面での「応用」として、
もとの形から何らかの変換を通して、
あらわれるはずである。

教わったままの情報が、
そのままで活用されるという機会は
ほぼ皆無である

——————————–
◆読書や学問をすることの「意味」は、
端的に言って、
自分がそれまで何も知らない存在であったことを初めて知る、
そこに「意味」がある。

ある知識を得ることは、
そんな知識を持っていなかった「私」を新たに発見することなのだ。

読書をするということは、
「こんなことも知らなかった自分」を発見すること、
すなわち自分を客観的に眺めることである。

「自己」の相対化であると言っていい。

◆人間の細胞の個数がほぼ37兆個あると言われても、
大きな数だなあという感想は得られるだろうが、
どのくらいの数なのかは、
少しも実感されていないはずである。

しかし、その知識としての数を、
例えば、一列に並べた距離が地球9周などという風に、
想像力の及びやすい形に変換してやることは、
その数の凄さが実感でき、
それがいかに凄いことであるかに対する感動と驚きが生まれる。

◆「自分ならどう考えるか」というときに、
それまでに先人たちがどのように考えてきたかを学ぶことは、
具体的に何かの役に立てるという勉強以上に重要な意味を持っている。

◆想定外に向き合う知力

将来の人生に起こることは、
すべて想定外のことである。

想定外の事態を、
なんとか自分だけの力で乗り越えて
いかなければならない。

生きるとはそういうことである。

運動するにはそれなりの基礎体力をつけなければならないのと同様に、
これから何が起こるかわからない想定外の問題について
自分なりに対処するためには、
それなりの体力が要求される。

それを「知の体力」と呼ぶ。

◆一歩社会へ出てしまえば、
そこはすべてについての正解というものはない世界である。

ある問題が起こった時、
それに対する正解を知っている人は誰もいない。

そもそも答えがあるものなのかどうか。

答えは一つなのか、
複数の答えがあるものなのか。

誰の答えを信用すればよいのか…

◆学習から学問へ

「学習」とは、学び、習うもの。

「習う」は「くりかえして修め行うこと」
「教えられて自分の身につけること」
という意味である。

学んで、その学んだことを身につけることが、
「学習」である。

それに対して「学問」は、「学ぶ、かつ問うこと」である。

学ぶ、それを受け容れるという一方的な「知」の流れではなく、
入ってきた「知」をいったん堰き止めて、
それが正しいのか問い直す、
どのような意味を、
あるいは価値を持っているのか問い直す。

そのような「問う」という行為を加えたところに
「学問」の意味がある。

◆人の細胞は60兆ではなく
37兆個である。

◆「能動的に聞く」とは

話された内容を、
自らのこれまでに知の体系のなかに位置づけることであり、
位置づけるためには、
聞きつつ常に自分の知の体系を確認し、
照合する作業を伴うはずである。

外部からインプットされてくる内容と、
既存の自らの知識の箱とのあいだに軋轢(あつれき)が生じるのは当然であり、
その軋轢こそが質問を促す力になる筈なのだ。

◆外国人が説明するときは、
あなたは私については何も知らないはずだというところから、
説明が始まる。

懇切丁寧に、
わかりやすくせざるを得ないのである。

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