Self 1-5: 嫌われる勇気(アドラーの教え)

信用と信頼はなにが違うのか

肯定的なあきらめとして自己受容ができたからといって、共同体感覚が得られるわけではない。「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えていくとき、絶対に欠かすことができないのが「他者信頼」である。ここでは「信じる」という言葉を、信用と信頼とに区別して考える。

信用とは条件つきのことである。たとえば銀行でお金を借りようとしたとき、なにかしらの担保が必要になる。銀行は、その担保の価値に対して「それではこれだけ貸しましょう」と、貸出金額を算出する。「あなたが返済してくれるなら貸す」「あなたが返済可能な分だけ貸す」という態度は、信頼しているのではない、信用である。

対人関係の基礎は、「信用」ではなく「信頼」によって成立している。その場合の信頼とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことである。たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えず、無条件に信じる。それが信頼である。もちろん、いっさいの条件をつけることなく他者を信じていたら、裏切られることもある。借金の保証人がそうであるように、こちらが損害を被ることもある。それでもなお、信じ続ける態度を信頼と呼ぶ。

信頼の反対にあるものは懐疑である。仮にあなたが、対人関係の基礎に「懐疑」を置いたとする。他者を疑い、友人を疑い、家族や恋人までも疑いながら生きる。いったいそこから、どんな関係が生まれるのか?我々は無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築けるのである。誰かを無条件に信頼したところ、裏切られるかもしれない。しかし、裏切るのか裏切らないかを決めるのは、あなたではない。それは他者の課題である。

あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいい。「相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう」というのは、担保や条件に基づく信頼の関係でしかない。課題の分離ができるようになると人生は驚くほどシンプルな姿を取り戻す。もっとも、課題の分離という原理原則を理解するのは容易であっても、実践するのは難しい。

アドラー心理学は、道徳的価値観に基づいて「他者を無条件に信頼しなさい」と説いているのではない。無条件の信頼とは、対人関係をよくするため、横の関係を築いていくための「手段」である。もし、あなたがその人との関係をよくしたいと思わないなら、ハサミで断ち切ってしまってよい。断ち切ることについては、あなたの課題である。

信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことはできない。浅い関係であれば、破綻したときの痛みは小さい。しかしその関係から生まれる日々の喜びもまた小さい。他者信頼によってもっと深い関係に踏み込む勇気を持ち得てこそ、対人関係の喜びは増し、人生の喜びも増えていく。ありのままの自分を受け入れ、「自分にできること」と「自分にできないこと」を見極めることさえできれば、裏切りが他者の課題であることも理解できるし、他者信頼に踏み込むことも難しくない。

仕事の本質は、他者への貢献

交換不能な「このわたし」をありのままに受け入れること。それが自己受容である。そして他者に対して無条件の信頼を寄せることが、他者信頼になる。自分を受け入れることができて、なおかつ他者を信頼することができる。この場合、あなたにとっての他者とは、仲間という存在になる。他者に信頼を寄せるということは、すなわち他者を仲間だと見なすことにつながる。仲間だからこそ、信頼することができる。仲間でなければ、信頼にまでは踏み出せない。

そして、もしも他者が仲間であれば、自分の属する共同体に居場所を見出すことにつながっていく。共同体感覚とは自己受容と他者信頼だけで得られるものではない。そこで「他者貢献」が必要になってくる。仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。それが「他者貢献」である。

我々は、自分の存在や行動が共同体にとって有益だと思えたときにだけ、つまりは、「わたしは誰かの役にたっている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる。つまり他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのである。

もっともわかりやすい他者貢献は、仕事である。社会に出て働くこと。あるいは家事をこなすこと。労働とは、金銭を稼ぐ手段ではない。我々は労働によって他者貢献をなし、共同体にコミットし、「わたしは誰かの役にたっている」ことを実感して、ひいては自らの存在価値を受け入れている。

一生かかっても使い切れないほどの資産を抱えた富豪がいる。そして彼らの多くは、いまもなお忙しく働き続けている。なぜ働くのか?それは他者貢献のためであり、ひいては「ここにいてもいいんだ」という所属感を確認するためである。

人生とは連続する刹那である

高邁な目標とは、ちょうど登山で山頂をめざすようなイメージなのかもしれない。しかし、もしも人生が山頂にたどり着くための登山だとしたら、人生の大半は「途上」になってしまう。つまり、山を踏破したところから「ほんとうの人生」がはじまるのであって、そこに至るまでの道のりは「仮のわたし」による「仮の人生」なのだと。仮にあなたが山頂にたどり着けなかったとしたら、あなたの人生はどうなるのか?事故や病気などでたどり着けないこともあるし、登山そのものが失敗に終わる可能性もある。

「途上」のまま、「仮のわたし」のまま、そして「仮の人生」のまま、人生が中断されてしまう。いったい、その場合の生とはなんなのか?人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえている。この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、大小さまざまなカーブを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだと。しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、人生の大半を「途上」としてしまう考え方である。

線としてとらえるのではなく、人生は点の連続なのだと考える。線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのである。「いま」という刹那の連続である。我々は「いま、ここ」にしか生きることができない。我々の生とは、刹那のなかにしか存在しない。それを知らない大人たちは、若者に「線」の人生を押しつけている。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。

でも、人生に線などありえない。人生が線であるなら、人生設計も可能である。しかし、我々の人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能である。

ダンスするように生きる

人生とは、いまこの瞬間くるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのである。いずれの生も「途上」で終わったのではない。ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいいのだ。ダンスにおいては、踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しよとは思わない。無論、踊った結果としてどこかに到達することはある。踊っているのだから、その場にとどまることはない。しかし、目的地は存在しない。

目的地に到達せんとする人生は「キーネーシス的(動的)な人生」である。それに対して、ダンスを踊るような人生は「エネルゲイア的(現実活動体的)」な人生」といえる。一般的な運動には、始点と終点がある。その始点から終点までの運動は、できるだけ効率的かつ速やかに達成されることが望ましい。特急列車に乗れるなら、わざわざ各駅停車の普通列車に乗る必要はない。そして目的地にたどり着くまでの道のりは、目的に到達していないという意味においては不完全(道半ば)である。それがキーネーシス的な人生である。

一方、エネルゲイアとは、「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きである。別の言葉でいうなら、「過程そのものを、結果と見なすような動き」と考える。ダンスを踊ることも、旅などもそうである。

旅という行為の目的は…なるべく早く目的地に到着し、そのまま最短距離で帰ってくることではない。家から一歩出た瞬間、それはすでに「旅」であり、目的地に向かう道中もすべての瞬間が「旅」である。なんらなかの事情で目的地にたどり着けなかったとしても、「旅」をしなかったことにはならない。それがエネルゲイア的な人生である。

登山にたとえると…登山の目的が「登頂すること」にあるのなら、それはキーネーシス的な行為である。もちろん山頂にたどり着けなかったら、その登山は失敗となる。しかし、目的が登頂ではなく登山そのものであれば、エネルゲイア的ということができる。結果として山頂にたどり着くかどうかは関係ない。

「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ

自分が劇場の舞台に立っている姿を想像してみる。こんなとき、会場全体に蛍光灯がついていれば、客席のいちばん奥まで見渡せる。しかし、自分に強烈なスポットライトが当たっていれば、最前列さえ見えなくなる。我々の人生もまったく同じである。人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや、見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなる。

我々はもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきである。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光のなかに生きている証である。人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しない。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

人生を物語に見立てることはおもしろい。ところが、物語の先には「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまう。しかも、その物語に沿った生を送ろうとする。わたしの人生はこうだから、そのとおりに生きる以外にない、悪いのはわたしではなく、過去であり環境なのだと。しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなる。

ライフスタイルは「いま、ここ」の話であり、自らの意思で変えていけるものである。直線のように見える過去の生は、あなたが「変えない」という不断の決心を繰り返してきた結果、直線に映っているだけにすぎない。そしてこれから先の人生は、まったくの白紙であり、進むべきレールが敷かれているわけではない。そこに物語はない。

人生最大の嘘

たとえば、大学に進みたいと思いながら、勉強しようとしない。これは「いま、ここ」を真剣に生きていない態度である。受験はずっと先のことかもしれない。なにをどの程度勉強すればいいのかわからないし、面倒に感じるかもしれない。しかし、毎日少しでもいいから、数式を解く。単語を覚える。つまりはダンスを踊る。そうすると、そこには必ず「今日できたこと」があるはず。今日という1日は、そのためにあったのである。

決して遠い将来の、受験のために今日があるのではない。どこに到達したのかを、線で見るのではなく、どう生きたのか、その刹那を見ていく。遠い将来に目標を設定して、いまはその準備期間だと考える。「ほんとうはこれがしたいけど、やるべきときがきたらやろう」と考える。これは人生を先延ばしにする生き方である。

人生を先延ばしにしているかぎり、我々はどこにも行けないし、味気ない日々が続くだけである。「いま、ここ」は準備期間でしかない、我慢の時期だと思っているわけだから。人生とは「いま、ここ」がまったなしの本番なのである。目標など、なくてもいい。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのだ。

深刻になってはいけない。真剣であることと、深刻であることを取り違えない。人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きれば、深刻になる必要などない。人生はつねに完結している。20歳で終わった生も、90歳で終えた生も、いずれも完結した生であり、幸福な生なのだ。人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことである。

無意味な人生に「意味」を与えよ

人生が連続する刹那であったとき、人生が「いま、ここ」にしか存在しなかったとしたとき、いったい人生の意味とはなんなのか?アドラーは「一般的な人生の意味はない」と答えたあと、「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と続けた。人生一般には意味などない。しかし、あなたはその人生に意味を与えることができる。あなたの人生に意味を与えられるのは、他ならぬあなただけなのだ。

あなたはなぜ迷っているのか?それはあなたが「自由」を選ぼうとしているからである。他者から嫌われることを怖れず、他者の人生を生きない、自分だけの道を。人が自由を選ぼうとしたとき、道に迷うことがある。そこでアドラー心理学では、「導きの星」というものを掲げている。旅人が北極星を頼りに旅をするように、我々の人生にも「導きの星」が必要になる。その星とは…「他者貢献」である。

あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。そして、刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きる。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きる。

誰かと競争する必要もなく、目的地もいらない。踊っていれば、どこかにたどり着く。誰かがはじめなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。まずは、あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。

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